99 寝息
13時半から、午後の作業が開始となった。古書解読のボランティアには、ZAIYAのメンバー3人以外は、たった2人しかいなかった。一人は、今回の市が主催となる調査チームの責任者の一人。隣県の大学で、考古学研究をしている教授であった。名を斎藤さんといい、初老の男性である。もう一人は、元々は市の学芸員として勤めていた男性で、定年退職した今も、時々こうして呼ばれて働いているという、やはり初老の男性で、森田さんという方だ。
「斎藤さん、森田さん、お土産に喜久福買って来たから、後で食べて。あと1時間くらいすれば、解凍されて食べれるから。あっちの休憩室に置いとくね」
「おー、ありがとう。美味しいよね、あれ」
「甘いの嬉しいよね、こういう混詰める作業の時は」
二人共、喜んでいた。
うさぎは古谷の隣に、太郎は小田の隣にそれぞれ座り、静かに見学を始める。古谷はテーブルの上に、私物の辞書を4冊置いていた。古文書解読辞典、古語辞典、漢字辞典、くずし字辞典。そしてメモ帳と付箋、ペンケースに原稿用紙。
「色んな辞書が、あるんですね」
「まあな。国語教師でもないから、普通に漢字分かんなかったりするしな」
「なるほど」
解読する対象の書類は、原本ではなく、コピーした物を使う。複数コピーして、その横にメモ書きしながら、分からない部分は辞書を引き、それでも分からない部分は付箋を貼って、読み解いて行く。一通り解読が終わると、それを原稿用紙に書き写して行く。それが、古谷のスタイルだった。他の人は分からないが、谷川辺りも、同じ様なやり方で進めているようだった。
皆無言で、集中して作業を進めて行く。辞書を捲る音と、ペンの音だけが室内に響く。
コピー用紙一枚分の解読が終わると、原稿用紙を重ねて透明なファイルケースに入れて、表題を書いたシールをファイルケースに貼って重ねて行く。古谷の前には、だいぶそのファイルが積み重なっていた。素人目に見ても、かなり古谷は作業が早いようである。手際良く作業を進めて行く。真剣な横顔を見るのは、かなりレアな気がして、うさぎはつい、ぼんやりと眺めてしまう。眼鏡の奥で、長いまつ毛が細かく瞬きしている。
ー目が、乾燥するのかな?
加湿機でも、持ってきてあげたいくらいだ。エアコンが効いているので寒くは無いが、その分部屋は乾燥していた。
古谷の手元で、書き進められて行く原稿用紙を眺める。意外にも、達筆な美しい字だ。習字でも習っていたのだろうか。教師らしい、模範的な字に見惚れる。
ーやっぱり、先生、なんだよね。
世界史を取っていないので、直接教鞭を振るう姿を見ている訳では、ないのだが。だが、時折垣間見える、隣の教室での姿や、他の生徒との遣り取りに、やはり大人なのだと、思い知らされる。
ーどうして、私なのかな?
宇崎清流だから?でも、出会った当初は、そんな事知らなかったはず。
ー顔が、好みに沿ってた?
一目惚れだと言われた。なら、見た目だけ?他には、何かある?
ー胸を張れる物など、何もない。
小説家である事に、誇りは持っているけど。多分それは、あまり恋愛には関係ない。何だったら「可愛げが無い」要因にすらなり得る。
ーでも、可愛げなんて、この人に求められた事は無い。
うさぎはひたすらに、綴られて行く古谷の文字を目で追い続ける。
「流石に、そこまで凝視されると照れるな」
ぼそりと、呟く低い声に。見上げると、少し照れた顔で、古谷が優しく見下ろして来る。
ーああ、この人が、好きだ。
無言で見上げる先の瞳に、溺れてしまいそうになる。溺れないけど。
「書くの早いけど、字、綺麗ですね」
「優生は高校卒業するくらいまで、ずっと書道習ってたからね」
古谷の代わりに、谷川が教えてくれる。
「そうなんですね。何か、意外ですね」
「大した事じゃないよ。小1の頃に、あまりにも字が汚いから母親がキレて、すぐ近所にある書道教室にぶち込まれたんだ。そっからずっと、やめ時わかんなくなっちゃってなー」
「あるよねー、そういうの。俺も合気道教室、やめ時分かんなくて、やっぱ高校卒業までやったもんね」
「すごいですね。あ、ごめんなさい。無駄話して、邪魔しちゃってますね」
「いや、丁度1時間経ったから、小休憩入れよう。古谷君のお土産の、喜久福食べようよ」
斎藤さんの言葉に、一同は嬉しそうに唸って背伸びする。
「休憩室に、インスタントコーヒーとか準備してあるから、みんなで休憩しましょ」
小田に誘われて、うさぎと太郎も部屋を移動する。だが、作業もしていないのに、お茶休憩するのも申し訳なくて、うさぎはトイレに行くふりをして、部屋を出た。
ー休憩は15分と言っていたので、周りをフラフラして、時間を見て戻ろう。
太郎を置き去りにして、申し訳無かっただろうか?だが、太郎は小田と、楽しそうに古文書の話をしていたので、邪魔するのも悪い気がする。
運動がてら、施設内を一周したが、さほど広くもないので、5分と掛からず元の場所に戻って来た。
この廊下の先に、自販機が並ぶ狭いレストルームがあったはずだ。そこのソファにでも座って、時間を潰そう。そう思って立ち寄ると、先客がいた。
古谷だ。
彼は、長椅子に横たわり、目の上に腕を当てて、寝息を立てていた。




