95 追加調査
再び古文書解読の依頼でZAIYAメンバーが呼ばれたのは、1月後半の土日だった。今回、七海は都合が悪いとの事で、小田と古谷、谷川が解読ボランティアに参加する。せっかくなのでと、太郎とうさぎも同行して、太郎が歴史博物館で調べて来た内容と、うさぎが独自で高校の図書館で集めて来た資料を確認し合う事にした。このついで程度の活動内容で、わざわざ東京から穂積を呼ぶのも悪いと思い、今回の事は穂積に連絡していない。
ボランティアは前回と同じ、遺跡発掘地の近くにある青少年会館。うさぎ達も、自由に利用出来る多目的ホールを使わせてもらう事にした。
「駐車場、車、多いですね」
古谷の車に乗って来たうさぎと谷川は、駐車場にズラリと並ぶ車を見て驚く。
「発掘調査の第二弾が始まってるのよー」
先に来て待っていた小田が教えてくれる。
「あ、追加調査。前回出土した遺跡跡の、北側でしたっけ?」
「予定変わって、西南のエリアを今掘ってるわー。後々、北側もやるみたいよー」
「変わったんですね」
「そう。文献や記録を読み進めている中で、西南方面にガラス加工用の炉があったっぽい事が分かってねー。なんせ曖昧な覚え書きばっかりで、確証は薄いんだけど、集落と思われる建屋遺構が出土したから、そっちに移動したみたいよー」
「やっぱ解読ボランティアより、発掘ボランティアの方が、集まり良いよね」
谷川も、苦笑いする。文献の方は、毎度人を集めるのに苦労しているのが伺える。今回も、ZAIYAメンバー以外は、二人しかボランティアは集まらなかったらしい。
「まあ、好きな人も多い分野だしねー」
青少年会館の中も、いつもより賑わいがあった。
「若い方、多いですね。発掘ボランティアって、誰でも参加、出来るんですか?」
うさぎが疑問に思う。
「どうかしらね。さすがにズブの素人はいないだろうけど、考古学を学んでる大学生とか、その卒業生、定年退職した学芸員さんなんかも、多いって聞くわよー」
「そっか。学生さんが参加してるんですね。実際に発掘調査に参加出来る、好機ですもんね」
太郎も、納得して頷く。
「じゃあ、自分らはこの多目的ホールを使わせて貰ってますね。先生たちも、解読作業、頑張って下さい」
太郎とうさぎは、ホールに残り、小田達は奥の会議室へと移動していく。
「それじゃ、うさぎさん。よろしくお願いします」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします。今日は、お付き合い下さり、ありがとうございます」
「いえいえ。自分も、博物館で調べて来た事、整理したかったので助かりました。相変わらず、文章纏めるのに、難儀してまして」
「なるほど。お力になれれば、良いのですが」
長テーブルに持ち寄った資料を並べ、太郎から報告を始める。
「先日伺った東北歴史博物館で、詳しく話しを聞いて来ました。多賀城冊の研究を専門にされている学芸員さんが当日着いてくださり、かなり詳しいお話も聞けました」
そう言って、太郎は最初の資料を出す。多賀城冊と、郡山遺跡を記す地図であった。その中間地点辺りに、赤いラインが一区画を囲んでいる。おそらく、今回発見された、岩森遺跡の区画。
「神亀元年(724年)、按察使兼鎮守将軍、大野東人によって、多賀城は設置されました。当時は蝦夷の反乱が激しく、蝦夷地開拓の本拠地として、多賀城冊は設置されました。当時、大和政権が築いた多賀城と郡山遺跡の居住区以外は、蝦夷の民族が居住していて、独立した自治区ではあったものの、盛んに大和政権とも国交を行い、中央文化も多く入って来ていた。この辺りから水田農業も広がり、蝦夷の生活スタイルも、大きく変わり始める。神亀元年以降は、蝦夷と大和政権による大きな抗争も無くなっていき、大和政権の城柵や、官衙(役所)の整備も進んで行った」
「だんだん、大和政権の支配下に、落ち着いて行ったんですね」
「ただ、この辺りは独自の自然崇拝をベースとした宗教観が根付いていて、中央から入って来た仏教への拒絶が強かったらしい」
「なるほど、奈良時代、ですからね。仏教が一気に広まる時代、ですね」
「その仏教を巡るやり取りの資料の中で、少し、興味深い記録がありました。博物館の森藤さんも、今回の遺跡跡に、大きく関係するかもしれないと、仰ってたのですが」
太郎はそう言って、一枚のコピーを出す。古びた古文書の写真を載せた資料の1ページだった。
「この書物の一文に、こんな記録があったんです」
『この地の権力者である、合手羅は強くこれを拒み、僧の出入りを固く禁じた』
『合手羅はシカや猪の骨を使い卜占を行う巫女であった』
「占いを行い、村を統治する巫女。卑弥呼のようですね」
「はい。以前、老人ホームでお会いした、お爺さんがおっしゃってた巫女様の名前も、アテラ様でした。この資料の記述とも、一致します」
「そうすると、イシズ塚の話も、出て来ますでしょうか?」
「あまり、イシズ塚に関する資料は、多賀城の記録には残っていないそうです。アテラ様の記録も明確ではなく、おそらく720年から734年頃まで村を統治していて、その後国府の土地として平定されて行ったのだろうと、推測されるとの事でした」




