87 あかねさす
一同はご飯を買って、すぐに青少年会館に戻る。
「うさぎは?マグロと一緒にいるの?」
「はい。もし、迷惑でなければ、車の中、使わせてもらっても、いいですか?」
「オッケー。寒いから、エンジンかけとこ。俺も残るわ。悪いけど、ほずみんと太郎君、みんなにご飯届けてくれる?」
「もちろん」
穂積は、二つ返事で頷く。
「あれ?てっきり僕も残りますって言うと思った」
「さすがに、もう信頼してます。何回聞いても、毎回うさぎさんか無の表情で、『あ、何もないです、ホント』て言うんで。まあ、同じ男としては、どうかと思いますが」
「お前は毎回、どの立ち位置なんだよ」
「それに、僕お弁当、チンしたいんで」
「自分も、向こう行きますね!チンしたいんで!ごゆっくり!」
にこやかに、穂積と太郎、男二人が去っていく。運転席に古谷が、後部席にうさぎとマグロが残る。
「古谷さん、ハンバーガー、温めなくて、いいんですか?」
「大丈夫。これだけコンビニで温めてもらって来た」
ちゃっかりしている。最初から、一緒に車に残るつもりでいてくれたようだ。ささやかだが、その心が嬉しくも思う。
「今買ったホットココア、もうぬるくなってます。寒いんですね」
「東京に比べると、やっぱ東北の冬は寒く感じる?」
「どうでしょう?東京は東京で、ビル風が、とても寒かったので。でも、やっぱり雪は多いなって、思います」
「昔に比べて、だいぶ雪の量は減ったけどな」
「雪が降り積もった山道を通った時は、まるで、巨大な水墨画の世界に飛び込んだようで、とても、感動したのを、覚えています」
「そうか」
さっさと食べ終えた古谷は、チビチビと缶コーヒーを飲む。食事を続けるうさぎの横で、大人しく待っていたマグロが、暇を持て余して古谷の側へ移動して行った。
「あてて」
いつの間にか、マグロの首輪に、うさぎの髪が絡まっていて、引っ張られる。
「おっと。マグロ、じっとしてろよ」
絡まる毛先を、古谷が器用に解いてくれる。ほっとする間もなく、古谷はうさぎの艶やかな黒髪を自らの口元へ運び、そっとキスをする。
「何もしてこないと、クレームが入ったんで」
古谷はにっと笑う。
「古谷さんが触るのは、髪とか爪とか、まつ毛とか。神経の通って無い部位ばかり、です」
「部位って。一応、自制心を保つための、マイルール」
「肌は、NGですか?」
「そう。体温感じちゃうと、危険」
そう言って、うさぎの髪を手放す。
「髪、下ろしてるの珍しいな」
「はい。少しでも、暖を取れるかと思い」
「一応、寒いって感覚はあったのな」
マグロが、戻って来てうさぎの膝に座る。ポカポカと、温かかった。
「ふふ。天然の湯たんぽですね」
その時、車の窓をコンコンと叩く音がした。見ると、七海がいた。
「七海さん、お疲れ様です」
「わっふ」
ドアを開けると、七海が寒そうに入って来た。マグロが嬉しくて尻尾を振る。
「いやー、寒いね。マグロ、ありがとうね。ずっと一緒にいてくれたんだね」
「じいちゃん、ご飯食べた?」
「ああ、向こうで頂いて来たよ。ずいぶん辛いカレーだったね」
「ああ、谷川のリクエストだよ。辛いの大丈夫だった?」
「お陰で体があったまったね。口がピリピリするけど」
そう言って、七海は笑う。
「七海さんがやってる古記録、すごい物だったんですか?」
「ん?ああ、そうみたいよ。記録っていうより、草子だったみたいだけど、貴重な歴史の手がかりになりそうだから、他の大学の先生が、続きは解読するって。中身分かったら、詳しく教えてくれるってさ」
「へえ。どんな内容?」
「戦国時代頃に書き上げられた、草子だったんだよ。天平元年っていうと、いつぐらいだい?奈良時代?」
「天平文化は聖武天皇の時代だから、奈良時代だね」
古谷がすんなり答えると、七海は満足そうに頷く。
「さすが先生だねぇ。その天平元年に、巫女姫様がこの地に現れ、占いによって守り導いたと、そんな話のようだ。まだ詳細を読み解いてるわけじゃないが、流し読みした中に、額田王に所縁ある者と記されていたので、眉唾だろうとは思うけれど、無視もできないので先に上に報告したんだ」
「へえ。随分なビッグネームが出て来たね」
古谷も目を丸くする。
「額田王…‥万葉集の?」
うさぎも大きな目をパチクリさせる。
「そう。歌人でもあり、天武天皇の元妃でもある」
「離縁、してるんでしたよね、確か」
うさぎは頷きながら、『あかねさす』の歌を思い出す。
額田王は、絶世の美女であったという説がある。しかし、容姿について記された史料があるわけでもなく、正確な事はあまり分かっていない。しかし、魅力的な才女であったのではないかと、彼女の残した和歌から、想像を掻き立てられるのは確かであった。
額田王は、元々は斉明天皇に見出され、朝廷に仕えていた女官であった。その美貌と才能から、斉明天皇の息子である、大海人皇子(後の天武天皇)に見そめられて妃となる。大海人皇子と別れた後、彼の兄である中大兄皇子(天智天皇)と結ばれたと言われている。
有名な、あかねさすの歌は、大海人皇子と中大兄皇子が揃う宴会の席で、額田王が余興として読んだ歌とも言われている。
額田王は、現夫の前で『あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る』と歌う。要約すると「うちの元旦那(大海人皇子)ってば、私には新しいパートナー(天智天皇)がいるのに、未だに私の事が好きで、パタパタ袖振ってアピールして来るのよ。見張の人が見てるから、やめなさいよね」のような具合だ。それに応えて、大海人皇子もまた、歌で返す。
『紫草のにほへる妹を憎くあらば 人妻ゆゑに我恋ひめやも』
訳すると「美しい人、人妻である貴女を未だに恋しく思うのは、貴女の事を嫌ってはいないからですよ」と返しているのだ。額田王のネタに、優しく紳士に返す、洒落た遣り取りである。
大海人皇子もまた、万葉集に歌を残す、優秀な歌人であった。
「昔の人は、恋愛沙汰も、お洒落ですね」
うさぎはしみじみと、頷くのであった。




