81 エピローグ
ホテルに戻り、穂積がちょうどシャワーを浴び終えたタイミングで、上司の石井から着信があった。盗聴器でもしかけられてるのだろうか?不安になって、鞄辺りを目で探る。冗談でなくやりかねない鬼上司の顔を思い浮かべながら、スマホを手に取る。
日付が変わる、少し前。
「お疲れ様です、石井さん」
『お疲れはお前だ、穂積。初回から遠方で、大変だったな。調子はどうだ?宇崎先生とは、打ち解けられたか?』
いつもの石井の低い声に、何となく安堵する。
「はい。恙無く。小田先生の他に、歌川さんという協力者にお会いしました。ZAIYA藤井代表の奥様だそうで。お陰様で、さほど緊張する事なく、任務に当たれました」
『ああ、歌川さんにお会いしたか。時間が取れれば、同行して下さると言ってたな。つくづく、環境に恵まれている。それで、先生は?実のある現地調査が出来ているようだったか?』
「はい。かなり興味深げに、色々調べていらっしゃるようでした。特に心中に関して興味がおありのようで、歌川さんに、愛とは何かと、真剣に問いかけておられる様子も見受けられました」
『ああ、なるほど。確かに先生自身、自分は深い憎しみや憎悪は想像できても、純愛を想像するのは苦手だと、おっしゃっていた。現に、BOXシリーズでも純愛の表現自体は少ない。偽りの愛は、かなり多く描かれていたがな』
「そう、でしたでしょうか?」
穂積は首を傾げる。BOXシリーズの4作とも、主人公が変わるが、皆それなりに恋愛の要素はあった。それら全てが、偽りの愛として描かれていたなら、かなりあの物語の闇は深い。
『偽り、は言い過ぎか。だが、あえて浅はかな愛を描いていた様に思う。先生は、懸命に何かを掴もうとしておられるのかもしれないな。まだ歳若くいらっしゃる。側でサポートして欲しい。では、残り半日、宜しく頼む』
「はい。頑張ります!」
元気に返事して、穂積は通話を切る。
「先生は、まだ子供でもある。どれ程秀逸なストーリーを構築出来たとしても、まだ人としての経験値が低い。だが優秀だからこそ、己に足りない物も知っている。経験を積む時間が無いから、知識として取り入れようと必死に足掻いておられるんだ。先生に問われた時、僕は一番身近な大人として、欲しい答えを提示出来なければならない」
もっと思慮深く。もっと幅広く。世界を見なければ。
「僕は、ちゃんと応えなければならなかった。担当(未来になる予定)編集者として」
火取蛾が何故、炎に飛び込むのか。
何と応えれば良かったのか、まだ答えは分からないけれど。
でも、出来る事から始めれば良い。
「まずは、車を買おう」
いつ何時でも、東北に馳せ参じる為に。宇崎清流を乗せても遜色の無い、高級車を買おう!身の丈なんて知るか!
※※※※※
あれから一年後。
穂積達はZAIYAの活動で、福島県の折月町にてキャンプをしていた。
夕食後にぼんやりと焚火を眺めていたら、バチっと音が鳴った。穂積の隣には、うさぎと古谷優生が並んで座り、同じ様に炎を見つめている。音の出所、既に灰と化したそれを見ていた。
「行きましたね」
うさぎが呟く。蛾が焚火に飛び込んだのだ。
「火取蛾かな。デカかったな」
なんて事なく、古谷が答える。静かな横顔を、炎が照らす。穂積は人知れず緊張した。この男は、何と応えるのだろうか?
「何で、飛び込んじゃうんでしょうね?死んじゃうのに」
あの時と同じように、うさぎは疑問を口にする。
「生の走行性、と言うらしい。一説には、長距離移動する昆虫は、月や太陽の光をコンパス変わりに利用するため、月の光と誤認して光源に衝突するのだと言われている」
「詳しいですね」
「俺も一時、社会科教師になるか理科教師になるか悩んだ時期がある。ちょっとだけ白衣に憧れた。若気の至りだ」
「だいぶ、ナメた動機ですね」
「で?うさぎは、死にゆく蛾は哀れだと思う?」
「いいえ。以前は哀れだと思っていましたが。今は、少しだけ、自ら身を滅ぼす禍に飛び込んででも、何かを求める気持ちが、分かる気がします」
「ゲーテの西東詩集の中にもあるな。『お前は呪われた様に飛んでいく、光を求めて。お前は火に飛び込んで、身を焼いてしまう』と。火とは果たして、恋慕か嫉妬か、あるいは何かしらの熱情か。炎の正体は知らないけど」
古谷は焚火に木を焚べる。炎がいっそう、明るさを増した。
「それでも、夜蛾が命を賭けて目指したのは、求めたのは、光だよ。己の道を照らす、導の光だ。それがどれほど朧な光であったとしても。決して、他者には否定する事が出来ない、確かな光だ」
「飛び込む夜蛾を、決して笑うなと、憐れむなと、そう言う事でしょうか?」
「その光は、希望とも呼ぶ」
「死の先に、希望があると?」
「ある。肉体が滅びた先にも、未来はある」
「ならば、愛は?死の先にも、愛はありますか?」
「ある。何故なら、愛は他者の記憶にも、宿るからだ」
「古谷さんは、心中、したいですか?」
「何?急に」
流石の古谷も、目を丸くする。だが、少し考えて、彼は答えた。誠実に。
「心中はしたくない。最愛が死ぬのは嫌だ。我儘が許されるなら、一緒に天寿を全うするか、俺より1日でもいいから、長く生きて欲しい。そしてほんの一粒でいいから、涙を流して惜しんで欲しい。あとはもう、忘れてくれていいから」
「でも、愛は、記憶に宿るのでしょう?忘れて、いいのですか?」
「うーん。ちょっとカッコつけた。本当は、忘れて欲しくない。たまにでいいから、思い出して」
「ふふっ」
「まあでもさ、己の矜持を守る為に、あるいは信じた愛や正義を貫く為に、果ては恩義や忠義を貫く為に、死を選ぶのもまた、道なんだろうね。死を含めて、その人の人生なのだから」
「そっか。死は終焉というだけでなく、人生の一部でも、あるのですね」
炎は揺らぐ。魂の様に。
少しおどけた表情で笑う古谷という男は、惜しみなく言葉を注ぐ。うさぎは穏やかな顔で、橙の炎を見つめながら、その声に耳を傾けている。
予感がした。この出会いは宇崎清流にとって、大きな流れを作る、重要な物になると。
それは、僕の役目では無かったのだ。その事は、少し寂しく思うが。
うさぎの目に、焔が宿った事は、喜ばしく思う。
それは光だ。導となる、確かな光だ。迷わず飛び込めば良い。火の粉くらいは、僕が払ってあげるから。
3章終了です。ありがとうございます。




