70 プロローグ
今年の夏も、大雨が続いた。
稲穂の育ちが悪い。雨が多いせいで、病気になる穂が多かった。
「風鎮の年ですからな。悪天候が続くのは仕方ない。せめて川がおとなしくしてくれれば良いのですが」
木細工用の杉を卸しに来た農民が、不安そうに空を見上げて語る。どんよりと重い雲が、空一面を覆っていた。
「新しい領主様は、この原木を運ぶ事で、年貢の代わりに換算して下さるそうで。今年みたいな不作の年は、ありがたい限りですわ」
「すまないが、杉材の支払いは少し待ってくれないか?」
「かしこまりまして。それでは、これで」
農民が帰って行く背中を見送り、父はため息を吐いた。武士とはいえ下級武士。戦も無くなれば、役人でもない武士には仕事がない。生活は困窮していた。新しく来た城主は、貧しい領民の暮らしを改善する為に、豊富な森林資源を活かして、下級武士達の副業にわっぱ作りを奨励した。この若林家も、わっぱ作りを始めて2年になる。稼ぎは少ないが、それでも安定した収入源となっていた。息子の峰吉も手伝い、どうにかこうにかその日暮らしをしている。
「父上、今日の分を高田屋に卸してまいります」
「おお、頼むぞ」
長男の峰吉は、今年18になる。一応武士の端くれとして帯刀しているものの、戦に出た経験はない。世はすでに、江戸幕府の元で太平の時代に入っていた。ただ、戦は無くなったものの、ここ数年災害が続き、特にこの出羽国は過酷な状況下にあった。
行き交う町人の顔も、どことなく暗かった。特に今年は風鎮祭の年。この年は吊川が氾濫し、酷い災害をもたらす事が多いのだ。
「若様」
うら若い、乙女の声が背後から聞こえた。
峰吉には、振り返らずとも分かる。お美代の声だ。今年15になる年頃の娘で、村一番の器量良しと囁かれている。古着屋の娘で、お美代見たさに足を運ぶ客も多いと聞く。
そんなお美代は、ずっとこの峰吉に思いを寄せて来た。峰吉もまた、涼やかな目元の美男子だった。お美代は一目惚れだと言うが、その気持ちに応えた事は、峰吉は一度もない。いつも掛けられる声は無視して、冷たくあしらって来た。今日も聞こえぬふりを決め込んで、さっさと立ち去ろうとしたが、失敗した。
「若様、今日はお別れを言いに来ました。今日だけは、こちらを向いては、下さいませんか?」
とうとう、何処かへ嫁ぐ日が来たのか。
峰吉は、人知れず奥歯を噛む。
せめて最後くらい、祝いの言葉を掛けてやろうと、峰吉は振り返り、そして目を見開く。お美代は、人目を憚らず、大粒の涙をこぼしていたのだ。
「いったい、何ごとだ?」
まともに言葉を交わすのは、数年ぶりだった。峰吉は人目を気にして、お美代を柳道へと連れ出す。ここなら人通りが少ない。いつもより水嵩が多い吊川が、ザラザラと流れていた。
「別れとは、如何に?」
よほど、意にそぐわぬ嫁ぎ先なのだろうか?
お美代はしゃくりを上げながら、どうにか伝えようと必死に話す。
「昨夜、うちに、川守様が、来ました」
「ばかな!?」
峰吉は驚愕する。
川守……吊川の龍神を祀る浮頼神社の神主を、この辺りの住民は川守と呼ぶ。その川守が、婚姻前の娘がいる家に、この時期の夜訪ねるという事。それはつまり、人身御供、龍神への生贄に選ばれた事を意味する。
「そんな馬鹿な。前回の花嫁も、うちの村からだったではないか!続けてなどあり得ぬ!」
生贄を捧げる風鎮祭は、三年に一度。生贄の花嫁は、川沿いの村々で、持ち回りで選ばれる。だから、一度村から出せば、しばらくは回って来ないはずだった。
「どうしてなのかは、分かりません。まだ、父から話が来たわけでは、ありませんので。ですが、先に、若様には、お別れが言いたくて」
お美代はまた涙を流す。
何て事だ。
こんな事なら、あれこれ考えずに、お美代に求婚しておけば良かった。お美代は美しい。貧しい武士の自分より、ずっと幸せにしてくれる相手がいるばすだ。そう思って、今までお美代を袖にして来たのだ。全ては、お美代の幸せの為に。それなのに……
娶ってさえいれば、お美代が人身御供に選ばれる事は無かった。貧しいながらにも、それなりに幸せな生活が送れた事だろう。
己の不甲斐なさを今更ながら恨む。
ーいや、まだ、道はある。
破滅の道だが。
「心配するな、お美代。一人でなど行かせない。私も共に行こう」
龍神の花嫁は、飛沫橋から身投げして、その身を吊川に捧げる。
「いいえ、若様、いけません。心中は大罪です。あなた様の遺体さえ、弔う事が禁じられてしまいます」
「いいんだ。私が愚かだったのだから」
お美代と峰吉。二人が吊川に身を投げたのは、風鎮祭前夜。8月9日、星祭りの夜だったと、言い伝えられている。
3章に入ります。本日は21時にも次話をアップします。




