50 不倶戴天
10月21日。
その日の夕焼けは、真紅色だった。
まるで血の様な空の色に、小華は一人、興奮していた。
人を殺すのは、初めてだ。
動物は、これまで何度も殺めて来た。絶命時の顔、骨を断つ手応え、水風船が割れた時の様な、血の飛沫。それらが物足りなく感じ始めたのは、いつからだったろう?
小華は息を潜めて、竹藪に身を隠す。
もうすぐ約束の時間だ。
小華の家へ向かう真夏が、間も無くこの道を通る。通行人などいない。近所に家もない。居るのはこの先のボロ小屋に住む、呆けた婆さん一人だけ。農家を営む小華の両親も、この時間にはもう家に入り、酒を飲み始めている事だろう。真夏を殺した後は、この牛刀を呆けた婆さんの家の前に捨てればいい。もともとあの家の庭先から拾った包丁だ。どういう理由か分からないが、夏の終わりに庭先に捨ててあった。いつも黒猫に餌を与えていた場所だった。黒猫はもう来ないというのに。やはり呆けて居るのだろう。未だに餌が置かれている。
多少錆びてはいるが、その牛刀は、人を殺すには十分な鋭利さが残っていた。
きっと婆さんの、痴呆から来る凶行という事で、丸く収まってくれるはず。元々呆ける前から、頭がおかしな婆さんだった。何でも自分の事を、シャーマンだと宣っていたらしい。よく父も、気味が悪いとぼやいていた。当然ながら、家族などいない。誰も他を疑いはしないだろう。どうせ老い先短いのだから、構う事は無い。
例え運悪く捕まったとしても、未成年である自分は、大した罪にも問われやしない。
ーあいつは最期、どんな顔をするだろう。
自業自得だ。元々は、あいつが蒔いた種だ。身の程も知らず、礼人先輩と付き合ったりするから。
ーもうすぐ、来る。
チリン。
微かに、鈴の様な音がした。誰か人が来たのかと思い、小華は慌てて振り返る。誰もおらず、何の気配も無かった。
ー気のせい?
気持ちが昂っているから、幻聴でも聞こえたのだろうか?
小華は深呼吸する。失敗だけは、許されない。万が一やり損ねて、逃げられでもしたら終わりだ。
大丈夫。絶対に、失敗などしない。背中から刺して、最期の顔を拝んだら、喉を掻っ切ってやる。今までずっと、そうして来た。あの時の白い猫だって。簡単な事だ。毒餌を与えて弱らせて、ぐったりした所を切ってやった。殺しなど、要領さえ得れば、なんて事ない。
チリン。
もう一度、音がした。小華はこの音に、聞き覚えがあった。
あの猫が付けていた首輪の、鈴だ。
真夏が付けたという、赤い首輪。
小華は後ろを振り返る。竹藪の奥、暗闇の中に、それはいた。驚く間も無く、小華が手にしていた刃物を奪い取られる。
「うそでしょ?何で?だって、アンタ……」
その時、道の向こうに、真夏の姿が見えた。
これから約束通り、小華の家へと向かうのだろう。
助けて!真夏!
そう叫ぼうとした時、真夏は何故か立ち止まり、空を見上げ始めた。
何してんのよ!早く!こっちに来て!
「たす」
声を出すよりも早く、喉を切り裂かれた。
「何故、行来姫様の忠告を聞かなんだべか。愚か者めが。ほら、シロ、クロ、餌だよ。たんとお食べ」
ヒューっと、小華の耳に、自分の息を吸う音が聞こえた。
そして、自分の血の臭いの先に、生臭い獣臭を感じた。
それが、最期だった。
赤い夕日が沈み、静寂と暗闇が辺りを支配する。今宵はどれほど待っても、金星は訪れない。
今日は外合。
金星が太陽の裏に隠れる時。これが過ぎれば、金星は再び西の空に、宵の明星として戻って来る。




