45 ホタル
古谷さん、私、蛍が見てみたいんです。
うさぎがそっと、古谷の耳元で囁く。少し照れ臭かったのか、頬がピンク色に染まっていた。
「了解。さっきロビーの人に聞いたら、蛍の谷で、まだちょっとだけ見れるらしいぞ。行ってみる?」
古谷もまた、耳元で囁き返す。くすぐったそうに、うさぎは小さく身を捩る。
「行きます」
「オッケー」
うさぎの手を引いて、古谷は立ち上がる。その場の誰にも理由を言わずに、連れ去ろうとする。悪い顔をしていた。
「わわ、古谷さん?」
よろめきながら、うさぎは何とかついて行く。浴衣が少しはだけた。
部屋を出て、古谷はさっと靴を履く。慌ててうさぎも、それに倣う。
「何も言わなくて、いいんですか?」
「いいの。エスケープだから」
「ええ?!」
蛍を見に行くだけでは!?
「二人とも、どこ行くんですかー?酔い覚ましに、私もご一緒しよっかな?」
さやかが顔色を変えながら、追いかけて部屋を出て来る。
「逃げるぞ」
古谷まさかの猛ダッシュ。
「え?ちょ、待って!」
訳もわからず、うさぎは追いかける。
「あ、待ってよ!」
今日一日中作業していた二人はスニーカーだが、後からやって来たさやかは高いピンヒール。追いつけるわけがない。二人の姿は、あっという間に夜の暗闇に消えて行った。
「何なのよ!もう!」
ロビーでさやかは足を止める。悔しげに、外の闇を睨み付けた。
「いいかげん、諦めなよ。あの人、うさぎさん以外目に入らないんだから」
後ろから、勢司の声がした。
「嘘でしょ?相手は高校生の子供よ?あの人何歳よ!どうかしてるわ」
「そう?俺は結構、お似合いの二人だと思うけど?」
「どこが?」
「そりゃ、イスラム説話で盛り上がれるあたり。レアでしょ、どう見ても」
「……それも、そうかも?」
「さ、戻って飲み直そう。小田さん待ってる」
※※※※※
宿泊施設から道を下り、ホタルの小道なる通りを更に下ると、細い沢に行き当たった。
「……居ませんね、蛍」
「ねー。まったくいねーなー。この辺はゲンジボタル。時期は六月から七月下旬だって。ちーとばかり、遅かったなー」
「え?さっき、ロビーの人に聞いたって」
「嘘に決まってんじゃん。ホタル居ないの分かったら、お前外に連れ出す口実無くなるし」
「えー」
「そんな顔をするな。大人は大抵みんな嘘つきだ」
「えー」
「まあ、こんな嘘をついてまで、この真っ暗な野山に連れ出した理由なんだがね。あ、どぞ。お座り下さい」
二人は、石階段の中段辺りに腰を下ろして、何も無い沢を見つめる。水の音だけがサラサラと、耳に心地良かった。
「これから俺がする話は、ひとりごとだから、聞き流していい。なんなら、否定も肯定もいらない」
「……はい」
「最初に違和感を感じたのは、うさぎがほづみんの事を、『穂積さん』と呼んだ時だ。穂積はお前との関係を、親戚だと言った。ならば、家ぐるみでの付き合いがある相手を、苗字で呼ぶのは不自然だ。おそらく親戚というのは偽りの関係で、何か言えない理由があるのだろうと思い、その時は聞き流した」
多分谷川達も、同じ感じだろう。知られたくないなら、深追いもしない。小田くらいは、事情を聞かされているのかもしれない。
「ならば、身分を隠してZAIYAの活動に参加するのは、何故だろう?ただの趣味とは考え難い。わざわざ保護者役を用意してまで参加してるくらいだ。フィールドワークの、実践を経験として積みたいのか、あるいは、民俗学の知識を得たいのか」
小さな虫が飛んで来て、目の前を通り過ぎる。虫まで遠慮して、立ち止まる事を辞退しているようだった。
「そんな事を悶々と考えていた時、ある事件が起きた。キャンプ場の、強姦未遂事件だ。あの時、穂積は真っ先に駆けて行って、こう言った。『先生、ご無事ですか』と。おかしな話しだろ?うさぎの保護者役が、どうしてうさぎを差し置いて、小田先生の心配をしてるんだ?穂積の言う先生は、おそらく小田先生の事じゃない」
うさぎは白い手で、自分の膝を撫でていた。
「なら、先生とは?先生と呼ばれる職業は色々ある。教師、医者、弁護士や税理士などの、いわゆる士業、政治家。そして、作家や画家」
さらりと、うさぎの黒髪が肩からこぼれ落ちて、膝の上の手にかかる。
「うさぎの年齢を考えると、医者や教師は考え難い。士業や政治家も。となると、作家や漫画家、画家などの創作作家が残る」
溢れた髪を、古谷の大きな手が掬い、うさぎの耳に掛ける。
「学校で知ったお前の名前は、猫村清流。清流と書いて、セイラと読むと言ったな。かなり無理がある」
「う……」
「まあ、今時の名付けなら、あり得なくもないんだろうが。でも、せいりゅうと読む方が、自然よな。そして、清流という名の大物を、俺は一人だけ知っている。宇崎清流だ」
怪奇作家、宇崎清流。
次々とベストセラーを生み出す気鋭の人気作家であり、世界に知られる日本人作家として、10本の指に入ると言われている。すでにいくつも映画化されており、海外でも上映されて話題となっていた。しかし宇崎本人は年齢不詳、性別不明と謎に包まれている。一昨年本屋大賞を受賞した際も、代理で編集長が授賞式に出ていたという。
ーそれもそのはずだ。
話題の天才作家がまだ高校生で、しかもこんな美少女だと知られたら、パニックが起きる。
そりゃあ穂積も、必死に隠そうとするはずだ。隠しきれて無いが。
「そうです。私の本当の名前は、宇崎清流です」
「うさぎを名乗るのは、宇崎をもじって?」
「はい。穂積さんが、もし間違って、私の名を呼んだとしても、誤魔化せるように」
「全然、信用されてねーな、あいつ」
「これは、穂積さんの上司に当たる方からの、命令で」
「穂積は?出版関係者?」
「はい。私の代表作のシリーズを、発行している有智館出版の編集者です」
「なるほど。ZAIYAに籍を置くのは、見聞を広げる為?」
「はい。最初は、東北に引っ越して、一人で取材して歩こうかとも、考えていましたが。危険だからと、心配されてしまって。担当編集者の方が、ZAIYAの代表の方と、繋がりがあった為、その流れで、ここを紹介して頂きました」
「やっぱ小田先生は知ってんの?知ってるのは、小田先生だけ?」
「はい。小田先生だけです。あ、あと、藤井さんの奥様が。他の皆さんは、あえて、聞かないように、してくれる、感じがします」
「なるほど。猫村ってのは?」
「母方の姓です」
「宇崎清流は本名?」
「はい」
「ペンネームつければ良かったのに」
「おっしゃる通りで。その、言い訳ですが、当時は、こんなに売れるとは、予想してなくて」
「それもそうか」
「あの……」
「ん?」
「ご感想は?」
「んー。やっぱり。俺って天才」
「あ、そっち?」
「あとは、さすが俺の惚れた女」
「あ……」
暗闇の中でも、赤くなっているのが分かる。
「俺にしときなよ。多分そこそこ、優良物件よ」
「でも私、まだ高校生、です」
「だから。お友達から、お願いします」
そう言って、右手を差し出す。
「また、それですか」
笑いながら、その手を握ると。急に引き寄せられて、爪にキスを落とされた。
「……お友達は、こんな事、しません」
うさぎが抗議すると、闇の向こうで、笑っている気配がした。




