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「だから結局、板挟みになるのは役所の俺達なわけよ」
いつも通り、酒が深まると谷川の仕事の愚痴が始まる。七海がいない今、話しを聞いているのは、意外にも勢司だった。
「やっぱ公務員って、ストレスたまるんすねー」
「部署によるかなぁ。やっぱフリーだと、ストレス少ない?」
「どうっすかねー?ストレスは少ないけど、世間の目はまだまだ冷たいっすよ。マンション借りるのも一苦労だしね」
「あ、それ芸能人も言ってたよねー。あんなに有名で、誰が見ても稼ぎ良いのにさ」
「それぞれ良し悪しっすよね。時間が自由になるのは、良いと思うけど。俺なんか朝弱いから、会社勤め出来ないと思うし」
「なるほどねー。優生なんて学校の先生だから、もっと朝早いよね」
「ん?まあなー。でも俺、朝は得意だし。毎日朝5時に起きるし」
「おじいちゃんかよ!おんなじ話し、昔七海さんからも聞いたよ!」
「なんか、意外ですね。古谷さん、低血圧そうなのに」
うさぎは、麦茶をチビチビ飲みながら、隣の古谷を見上げた。
「よく言われるー。こう見えて、早寝早起きの健康優良児だから」
「私、朝全然ダメです。絶対、二度寝します」
「あら、私も朝は得意ですよ。5時に起きて、ヨガやるのが日課です。古谷さんとは、気が合いそうですね」
さやかがにっこり笑う。さっきから古谷の隣に行きたがっているが、古谷は両サイドうさぎと穂積に固められていて、一向に行けずにいた。
「ほずみん、お前、もしかして良い奴か?」
「は?何の事やら。うさぎさんの為ですよ」
小声でやり取りする古谷と穂積。穂積はトロンとした目で、古谷を見上げた。「ただね」と続ける。
「ただね、あなたなら。うさぎさんに迷惑かけたり、困らせたりはしないだろうなと、そう思ってます」
「そうかなー」
「そこは肯定して!不安になるでしょ!」
「えー」
「ホント、よろしく頼みますよ。彼女は強い。でも、まだ16歳の女の子なんです。歳の割には、背負うものが大きすぎる」
「よし。よろしく頼まれよう」
そう言って、穂積の頭をポンと叩いた。しばし穂積の動きが止まった後、ぐーっと寝息が聞こえて来た。
「ほんと、何なのコイツ」
呆れる古谷に、うさぎは笑う。
「疲れてるんです。それでなくても、お仕事、大変なんで」
「そっか。コイツはコイツで、頑張ってんのか」
「はい」
「あ、たけのこの里食べる?」
「ところで、さっきの話しですが。古谷さんは、一千一夜物語の中で、どの話が一番、好きですか?食べます」
「んー?どうかなー?『商人とイフリートの話』かな」
「また、マニアックな」
呆れ顔で、うさぎはお菓子を齧る。
「そういうお前は?」
「やっぱ、シンドバットですね」
「王道だな。でもあれ話長いじゃん」
「そうですか?」
「ねえねえ、何の話?混ぜて」
眠った穂積の横に陣取り、さやかが会話に混ざる。
「一千一夜物語について、です。どの話が、一番好きか」
「はあ……」
さやかの笑顔が固まる。
「そもそもさ、知ってるか?あの話、最初から1001話あったわけじゃないんだぞ」
「え?そうなんですか?」
「……」
「そ。最初に紹介されたアラビア語の写本は282話。有名なアラジンやシンドバットの物語は、何とかかき集めて1001話にしようとしたヨーロッパ人の後付けだから」
「がーん」
「さ、さすが世界史教師、詳しいんですね」
「どうして、282話しかないのに、一千一夜物語、なんですか?」
「そりゃ冒頭の話にちなんでだろ。街の娘を宮殿に呼んで一夜を過ごし、その翌朝には首をはねたシャフリヤール王の非道を止めるため、王の元に嫁いだシェーラザードが、毎晩物語を語り聞かせ、話の続きを聞きたい王は、シェーラザードを殺さず、ついには千の夜を超え、王はシェーラザードを愛するようになる」
「素敵な話ですね」
さやかは手を合わせて、うっとりして見せる。
「でもそれ、シェーラザードが殺されちゃうバージョンも、ありますよね」
うさぎが言うと、古谷は嬉しそうに目を細める。
「お、知ってんじゃねーか。正確には、飽きた王に殺されそうになり、シェーラザードが命乞いする、という結末だな。一千一夜には底本が無い。だから数多の結末が存在し、中身も異なる。この物語は中東やヨーロッパという、二つの文化圏を行き来して変化して行った経緯がある」
「シャフリヤールもシェーラザードも、架空の人物?」
「もちろん。物語は、シェーラザードの語り口で進むけどな」
「アラジンも、シンドバットも、ヨーロッパ生まれの後付けかー」
事実を知って、少ししょんぼりするうさぎ。
「いかにも西洋人が好みそうな、美しい夢物語だろ?本来の写本から来ている物語の多くは、嫉妬や勘違いで人死にまくりの、とんでも話が多い。俺はそっちの方が、当時の、中世イスラムの生活や価値観が覗けて、好きだけどね」
「また嫉妬、か。最近、この単語、よく出て来ますね」
「そう。人類不朽のテーマだ」
「どうして?」
「人は愛されたいと願う限り、嫉妬を手放す事はできない」
「愛する限り、ではなく?」
「どうだろう?」
「先生でも、分からない?」
「そりゃそうだ。分かるには、多分あと百年くらい、時間が要る」
「ふふ。百合の花、咲いちゃいますね」
「そうだな。百年なんて、そんなもんか」
「何の話?ねえ、ちゃんと皆んなにわかる話、して下さいよ」
話に割って入って来たさやかが、ついて来れずに不貞腐れる。古谷達にとっては、急に入って来て不満を言われても、困るのだが。
「一千一夜物語!世界一有名なイスラム説話集と、夏目漱石の夢十夜でしょ!聞いてりゃ分かるでしょうが!分からないなんて、不勉強ですね!まったく、最近の若者はスマホばっかりで、全然本読まないんだから」
寝ていたはずの穂積が、急に喋り出す。
「うわ、ほずみん聞いてたのかよ。寝てたんじゃねえの?」
「ぼかー、おきてまふよ」
「もう、つまんないの。小田先生〜!」
さやかが小田の方に避難して行った。今日一番の仕事に、穂積は満足してニヤける。
「この貸しは、また次の機会に返してもらいまふよ。ぐー」
「器用だな」
ため息を一つ。古谷は後ろの布団に穂積を寝かせると、タオルケットを掛けてやった。満足そうな寝顔に、ふっと笑いが溢れた。




