31 ブルーミントガム
「さて、猫村さん、あるいはうさぎ」
「学校では、猫村でお願いします」
「では猫村。今、何となく神曲の話をしたけどさ、煉獄の中でダンテも対面する『七つの大罪』だが、もっとも罪深いのは、7つの罪うちの、どれだと思う?主観でもいいぞ」
「7つの大罪ですか?あまり、考えた事、ないですね。うち仏教でしたし。でも、そうですね……」
七つの大罪。人間を罪に導くとされる源の感情。
傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。
「あえて選ぶなら、傲慢ですかね?神曲の中でも、第一の罪とされますし。傲慢な人間は、自分しか見えていないし、独りよがりで、他者を顧みる事すら、出来ないでしょう?」
うさぎは再び視線を本棚に移す。肩に掛かっていたおさげ髪が揺れて、背中に落ちる。紺色のセーラー服。夏休み期間なので、別に図書館の利用は私服でも良いのだが。意外と真面目な性格なのかもしれない。
「先生は?何だと思いますか?」
「俺?俺は嫉妬一択かな」
「どうして?」
「やつらは心に棲みつくなんて、生易しい物じゃない。宿主を乗っ取る寄生虫のように、心を操り、肉体を奪い、自我を書き換え、矜持を蝕み、人生の殆どを費やす事さえ、厭わぬほどに魂に巣喰う」
「こっわ」
「己の人生を賭してまで、相手の人生を壊そうとする」
嫉妬とは。
「人類最悪の、テーマだ」
「どうしたんですか?急に、こんな話」
「ここが煉獄山の巓なら、人は乗り越えねばならない。罪を背負い、浄罪の苦しい旅に出なければならない。だが、罪を犯す前に、その原罪に気付けたなら、悔い改める事が出来たなら、その荷を背負わずに済む」
「はい」
うさぎは困惑気味に頷く。
「行来姫は、ベアトリーチェだ。まだ死を迎えていないダンテに、己の行動を悔い改め、行いを正すよう叱責しながらも導いたベアトリーチェのように、行来姫もまた、導こうとしているんじゃないかな。何者かが、罪を犯す前に」
「行来姫の娘は、その美貌に嫉妬した里の娘に弑虐された、という伝承も、ありましたよね」
自分の娘と、重ねて見ているのだとしたら。
我が子のように可愛がっている、氏子の娘。その子を守る為、そして、里の娘が嫉妬に駆られて、罪を犯さぬよう。
何故なら、彼女は里を守る、姫神だからだ。
古谷はカウンターの上にあった書物を棚に戻し終えると、換気していた窓を閉める。
「いい時間潰しになったよ。サンキュー。じゃ、気を付けて帰れよ」
「なんか、先生みたいですね」
「先生だから!」
「違います」
「あん?」
「友達、でしたよね?」
「おお。いつの間にか、チームメイトから友達に昇格してた」
「あ」
「じゃあな、親友」
手を振って、古谷は軽い足取りで階段を降りていく。
まだ、親友とまでは言っていない。
「変な人」
いまいち、掴みどころが無くて。
どこまで本気なのか、分からないけれど。
この図書館を、神曲の煉獄と称する辺り、自分と感性が似ているのかもしれない。
「本、好きなのかな」
夏目漱石の夢十夜も、ダンテの神曲も知っていた。
どんな本が好きなのだろうか?
「私の本、読んでる、かな?」
急に恥ずかしくなって、うさぎは眼鏡を探した。度の入っていない、伊達メガネ。
世を忍ぶ、借りの姿。
そんなに大それたものでも、無いけれど。
「私の本名、知ったら、どんな顔、するのかな?」
他の大人達のように、なるのだろうか?それとも、変わらずに居てくれるのだろうか?
急に親戚を名乗り出した見知らぬ大人達。お友達だと言い張る、顔しか知らない同級生の保護者達。突然馴れ馴れしく話しかけて来るようになった教師達。彼らは性急に、うさぎから居場所を奪って行った。
知られてはいけない。
うさぎは、今の生活を気に入っている。この仙台の町が、気に入っている。ここにいたい。
だから誰も、懐に入れてはいけない。今、自分の背後には、人を豹変させてしまう程の、誘惑があるのだと知ったから。
人は簡単に変わるのだ。
「先生。私、やっぱり一番嫌いなのは、強欲かもしれない」
七つの大罪。人を罪に導く源の感情。種子は根付き、人の心に深く潜り込む。
『どうして助けてくれないの?血の繋がった親族なのに!』
昨日まで、顔も知らなかったような自称親戚が、誠意を見せろと騒ぎ立てる。自らは、一抹の誠意も持ち合わせていないくせに。両親が、その度に丁寧に対応しては、どうにか家から追い出していた。それでも鳴り止まなかった電話。
ーひとが、嫌いになりそう。
そう思った次の瞬間、ふと鞄の横にガムを見つける。自分で置いた物ではない。そして、ここに来た人は、一人しかいない。
今時珍しい、板ガム。
爽やかな、ブルーミント。2枚。
ーまだ、下のフロアにいる、かな?
うさぎは急ぎ階段を降りる。ポケットに、甘いミルク飴を忍ばせて。踊る様な足取りで。
あの人はああ見えて、甘い物が好きだと、もう知っているから。




