25 アンタレス
高台に登ると、芝生が敷かれた、ガランと広い公園があった。
近くに車を停めて、公園中央にある小さな丘の、木の階段を登って行く。街灯もないその場所は、空を遮る物は何もなく、眩しい程の星が目に飛び込んで来た。
「すごい、さっきまで、あんなに曇ってたのに」
いつの間にか、空は晴れ渡り、分厚い雲は消え去っていた。
「古谷さん、空が晴れてたの、気づいてたんですね」
「おう。上弦の月が、はっきり見えたから、おおっと思ってさ」
「すごーい!天の川よく見えます!」
真夏は芝生に寝転がる。
「お、いいね」
うさぎと古谷も、倣って横に川の字に寝転がる。真ん中にうさぎが寝ていた。
「すごい、吸い込まれそう。こんな風に、星を見るのは、初めてです」
うさぎは、しきりに感動しているようだった。
「うーん?」
古谷が変な声で唸る。
「どうしました?」
うさぎが右を見ると、綺麗な横顔があった。真剣に空を見ている。
「俺の好きなオリオン座が見つからない」
「……古谷さん。オリオン座は、冬の星座なので、夏の空の、この時間帯には、見えません」
「え?そうなの?」
「はい。多分朝方まで待てば、見えると思います」
「じゃあ、あれは?北斗七星」
「ありますよ。北の方。北極星、わかりますか?」
「あれ?あのちょっと明るいやつ?」
「多分、それです。その右下、くらい」
「おお!あった」
「ちなみに、北斗七星は、おおぐま座のしっぽです」
「まじで?天下の北斗七星が、しっぽ扱いなの?酷くない?」
「しっぽ、かわいいじゃないですか。ほら、古谷さんも早く、星座のうんちく、語って下さい」
「ごらん、あれが夏の大三角だよ」
「流石にそれくらい、知ってます」
「じゃあ、水瓶座」
「あ、分からないです。どこですか?」
「夏の大三角の横っちょ。ふにゃふにゃふにゃーって、ある」
「全然、分からないです。説明、下手過ぎません?」
「ほら、あの青白い星、下の方にあるじゃん」
「はあ」
「あれがフォーマルハウトって星で、水瓶からこぼれてる水の先端部分」
「へえ。詳しい、ですね」
「俺、水瓶座だから」
「水瓶座って、何月でしたっけ?お誕生日、いつですか?」
「2月9日」
「すごい、夏目漱石と一緒です」
「初めて言われたわ」
「ほんとですよ?」
「それは知ってるけど、普通、肉の日とかしか言われねーよ。よく知ってたな」
「大変、古谷さん」
「ん?」
「古谷さんの話、つまんなかったのか、真夏ちゃん、横で寝息立ててます」
「お前らホント、俺に対してさっきから酷いかんな?」
「冗談です。きっと、風も心地よいし、気持ち良くなったんだと、思います」
「確かに。良い風吹くな」
「ねえ、古谷さん?」
「ん?」
「一目惚れって、言いましたよね?」
「うん」
「それって、見た目が好きって、事、ですよね」
「うん。今の所、それくらいしか知らないしな」
「もし、私が、ものっすごく、性格、悪かったりしたら、どうするんですか?」
「それはめちゃくちゃ思った。勢いで告白したすぐ後に思ったわ。クッソビッチだったらやばくね?って」
「言い方」
「だから、今、必死に話そうとしてる。いっぱい話して、知りたいと思うし、同じ様に、知って欲しいとも思う」
「……はい」
星は瞬き、上弦の月が清々しく大地を照らす。虫が鳴き、風は青く香る。男の声は涼やかで、だが密やかに、熱を帯びている。
「古谷さん」
「ん?」
「続き、話して下さい。星の話。ほら、早く」
「まじ?社会科教師の星座知識に、過剰に期待し過ぎてない?」
それでも、古谷は言葉を紡ぐ。時を惜しむように。
「ほら見てごらん。あの一等明るい、赤い星を。暁の星、金星だよ」
ただし、内容は空っぽの様だ。
「もう死にます」
うさぎは呟く。
「ちょ!酷くない?無理やり話し振っといて、酷くない?死を選ぶほど、俺との会話は苦痛を伴うわけ?」
「違います。古谷さんが、暁の星とか、いうから……でも、やっぱり、いいです。ごめんなさい」
「ああ、そう言う事ね。『夢十夜』か、夏目漱石の。ホント好きなんだな、漱石。誕生日知ってるくらいだしな」
「そう。……分かるんですか?」
「まあ、一応?有名なヤツだしな。第一夜の話だろ?奥さんが、あたしゃもう死ぬから、あたしの墓の横で百年待ってろ、会いに来てやっからよ、てやつ」
「言い方」
「で、百年経って、気づいたら百合の花が咲いてて、空の金星が、涙を落とす」
「まあ、そうですね」
「好きな話なの?」
「そう、ですね。愛という物を、イメージした時に、真っ先に頭に浮かぶのが、この話です」
「なるほど」
古谷は、少し笑う。急にうさぎは、恥ずかしくなって顔を逸らした。
「ちゃんと、分かってます。百年側に居られるのは、夢だからできるのであって、現実には、百年墓の側に寄り添う事なんて、出来ない事くらい」
「まあなあ、大人になって出会ったとして、百年待ってたら、少なく見積もっても120歳くらいか。だいぶきついよなー」
百合を待つのも、楽ではないと、古谷は笑う。
「まあでも、最後の別れで、涙を一粒でも流して惜しんでくれたなら、俺はそれで、十分かな。なんちゃって」
「暁の星が落とした、一粒の露が、愛ですか」
「そう。或いは」
男は言う。
「百年待つと、相手が応えてくれたなら。例え嘘であったとしても、俺にとっては、その応えが愛かな」
うさぎはもう一度、男の横顔を見た。あまり知らないこの人の顔は、時々別人の様に、澄んだ目をして見せる。
「相手を想い、つく嘘は、真実なんかよりもずっと、誠実なんじゃねえの?」
「古谷さん」
「ん?」
「さっき、古谷さんが、暁の星って呼んだ、あの赤い星」
「うん」
「あれ、金星じゃないです」
「……」
「金星は、夏の夜は目に見えません。この時期見られるのは、明け方の一瞬だけです。あの星はアンタレスですね。夏の一等星の一つです」
「……あの星にとっては、百年なんて一瞬だろうな」
「ですね」
「帰るか」
「はい。真夏ちゃん、起こしますね」
アンタレスは、さそり座の中心に輝く、赤い一等星。故に、さそり座の心臓と呼ばれる。
ー私は、さそり座……
愛の象徴とされる金星と、アンタレスを間違えるなんて。色も光の強さも、方角さえも、何もかも違うのに。
意図せずして、心臓を射抜かれたような。
ふわふわした感覚と、肌をくすぐる夜風に酔う。うさぎは少し赤くほてった顔を、月明かりから隠して歩いた。
本当の《愛の星》金星は、まだ遠い東の果てで、眠っている。




