112 蒼い恋人
最初は、作り物かと思った。
それ程、その顔は青かった。
部屋にあった白い箱は冷蔵庫ではなく、冷凍庫だったようだ。凍てつく冷気の中、それはまるで宝物のように、赤い台座の上に置かれていた。干からびたミイラのような、頬の垂れた顔。長い髪には霜がこびりつき、見開かれた目は黒く窪んでパンダの様だった。口が半分開いている。
「きゃあ!!」
多分うさぎは、人生の中でキャアと叫んだのは、初めてだった。あまりの事に、声が出ないのではないかと思うほどに、喉の奥は張り付いているのに、しっかりと声が出て、自分でも驚いた。そして後ろにのけぞって、尻餅をついた。多分、驚いて尻餅をつくのも、人生初めてだ。冷凍庫を閉め忘れたので、中の顔と目が合ったままだ。気持ち悪いのに、逸らす事ができず、尚且つなけなしの好奇心が、それを必死に観察し続ける。青と表現したが、よく見ると灰色の方が近い。小学生の頃、粘土で作った自刻像を思い出す。
「あー、見つかっちゃった」
呑気なナタニアの声に、何故かうさぎは、一気に冷静さを取り戻した。
やるべき事が、ある。
「どうして冷凍庫に、人の顔が、入っているんですか?これ、本物、ですよね?」
できるだけ、はっきりと、大きく声を出した。そうすると、徐々に心拍数が下がって来て、脳に血が回り始める。
「この子は空愛羅。苗字は、忘れちゃった。大西、だったかな?」
「大西、空愛羅……」
「そう。あなたと同じ、高校生よ。今はおばあちゃんみたいに、シワシワになっちゃったけど。元は可愛かったのよ」
「高校生、ですか?」
不意に、海で見つかった女性の腕の事を、思い出す。
「そう。もともとは、自殺志願者ってやつ?一緒に死んでくれる人探してて、それを私が止めたの」
「止めたのに、殺したんですか?」
「殺したつもりはないわ。時間を止めて、永遠に変えただけ。この子とはね、利害が一致したの。私達は、恋人として、永遠の愛を選んだの」
「永遠の愛、ですか?これが?死んでいるのに?」
「そうよ。空愛羅は、もう何もいらないと言った。でもね、ただ、誰かに愛されたかったと言ったの。1人でいいから、時々自分を思い出してくれる人が、いて欲しいって」
タナリアは立ち上がり、冷凍庫の中に手を伸ばす。躊躇なく台座の上から首を持ち上げて、目の前に掲げる。重たそうに、両手で掲げた。
恐ろしいのに、うさぎは動けない。ここに来て、自分が腰を抜かしている事に気づいた。腰を抜かすのも、人生初体験だった。自分が思う以上に、自分はこの状況に恐怖しているのだと、理解する。恍惚と笑うこの女性が、恐ろしかった。
「そして私は、プラトニックな愛が欲しかった。そしてそれは、永遠である必要があった。プラトニックを継続するには、肉体は邪魔だったの。だから、こうした」
そう言ってナタニアは、空愛羅の唇にキスをする。まるでサロメが、聖職者ヨハネの首にしたような、冷徹なキス。
「ねえ、プラトニックの意味、知ってるかしら?」
「哲学者プラトンの名前に由来した、愛に対する考え方の一つ、です。肉体的に魅力された愛より、精神的に惹かれる愛の方が、優位であるとする、考え」
「ほんと変な子。なんでそんな事、知ってるの?」
「昔、プラトンのイデア論に興味を持ちまして。ついでに中期対話篇も、読みました」
「ほんと、魅力的な子。やっぱり私、貴女に恋をしているわ」
「あなたにとっての、永遠の恋人は、彼女ですよね?」
視線で、目の前の生首を指す。
「そもそも、永遠の愛を、求めるなら。殺すべきでは、無かったのでは?」
少し強い口調で、うさぎは非難する。だが、目の前で興奮している女には、当然ながら響かなかった。
「駄目よ。生きていたら、心があったら、変わってしまう。人の心は移ろうものなのよ」
そう言って、ナタニアは自笑する。
「そう言う私も今、気持ちが貴女に移ろっている。ウケるでしょう?殺してまで、手に入れたのに」
「何故、殺す必要が?」
「だから、心を止める為よ。そして、純愛を貫くため。私はユダヤ教徒なの。誰も認めてくれないだろうけど、これでも、信仰深い方なの。だから、肉欲は許されない。神様が認めてくれるのは、精神的愛だけだから」
ナタニアは笑う。その笑顔には、狂気が棲んでいた。
「私が求める愛には、肉体は、邪魔なのよ」
蒼い首を冷凍庫に戻して、ナタニアは扉を閉める。無意識にホッと息を吐いたうさぎに、急に詰め寄って冷えた指で頬を撫でた。そしてその冷たい指は、頬から首に、首から鎖骨に、そして、そっと胸元に降りて来る。
「肉欲なんて、許されない。神様に、今度こそ見限られてしまうわ。それなのに、いけない子ね。あなたは私の中に棲む悪魔を呼び起こす。ずっと封じて、故郷まで捨てて生きて来たのに」
いけないわ、と。ナタニアは目を細めて呟く。冷えた指は、再びうさぎの首へと戻る。
「また切ってしまおうかしら」
冗談を言うように、ナタニアは笑いながら言う。それが冗談なのか、本気なのか、うさぎには判断がつかなかった。
そして、待っていたものが来た。
ナタニアの背後。冷凍庫の後ろにあるバルコニー窓。開けられた紫色のカーテン。その窓の向こうに、彼の姿を認める。背の高い、その影は。勢いよく腕を振り上げた。そして次の瞬間、まるで氷の結晶の様に、ガラスは粉々に砕けて、陽の光を受けてキラキラと飛び散る。うさぎはあまりの光景に、音がしたかどうかも、分からなかった。




