111 扉の向こう
「ごめんなさい!寒くて手が滑っちゃった!」
ナタニアは、慌ててうさぎの上着を履こうとポケットを探るが、生憎ハンカチは無かった。
「大丈夫です。幸い、熱くも無かったですし」
「でも、早く洗わないとシミになっちゃう!ねえ、うさぎ。私のアパートに来て!すぐそこにあるの。歩いて5分もかからない。私のアパートで急いで洗えば、きっと大丈夫!それに、アパートに行けば、私の上着を貸してあげられる。いいでしょう?さ、急いで」
ナタニアは、慌てた口調でそう言うと、少し強引にうさぎの手を引いた。
「大丈夫です、このままでも。大して汚れてませんし、それ程高価な服でも、ないので」
「そうはいかないわ。私の不注意のせいだし。大丈夫、そんなに時間も掛からないわ。この坂下って、すぐの道あるでしょ?右に曲がるとコンビニあって、その裏辺りなの。近いでしょ?さ、シミになる前に、行くわよ」
「わ、分かりました。その代わり、ちょっと、LINEで連れの方達に連絡させて下さい。勝手に出歩かない、約束だったので」
「ああ。あの人相の悪い教師ね」
ナタニアは、ちょっと嫌な顔で応えると、うさぎの手を離した。
うさぎはスマホを取り出すと、古谷に急ぎLINEを送る。待つ事なく、すぐに返信が来た。二、三やり取りした後、うさぎは笑顔を見せた。
「了承を得ました。なるべく発掘調査に参加したいので、上着をお借りしたら、早めに戻りたいです」
うさぎはスマホを胸ポケットに仕舞うと、ハキハキした口調で言う。
「もちろん、そのつもりよ」
「この駐車場の前の道を、真っ直ぐ下れば、良いんでしたよね。県道に出て、右でしたっけ?」
「そうよ。コンビニのすぐ裏」
「コンビニの、すぐ裏ですね。じゃ、急ぎましょう」
うさぎはさっさと歩き始める。思ったより抵抗されなかった事に安堵しながら、ナタニアも後を追った。
ナタニアのアパートは、本当に徒歩5分も掛からなかった。
「本当に、コンビニの真裏なんですね。二階建ての、アパートですか。お部屋は、一階ですか?二階ですか?」
「ニ階よ」
「ニ階ですね。さ、行きましょう」
「え、ええ」
何となく不自然な会話に、ナタニアは首を傾げたが、うさぎが自分の部屋に来る事に、気持ちが浮ついて来る。華奢な背中を追って、ナタニアは外階段を上がる。
ーこの子、まんざらでもないのかしら。とても積極的になってるわよね。何だか声も大きくなっていて、興奮しているのかしら?
「この部屋よ」
「202号室、ですね。202、か」
「ええ。それがどうかした?」
「いえ。私の部屋も、同じ202号室、でしたので。一緒ですね」
「あら、そうなんだ」
無邪気に笑ううさぎが可愛くて、ナタニアは目を細める。
「さあ、寒いから、早く入って」
「はい。それじゃ、おじゃまいたします」
ナタニアが部屋の鍵を開けて、先にうさぎを入らせた。玄関は狭いので、うさぎが靴を脱いで中に入ってから、ナタニアも玄関に入り、靴を脱ぎながら、こっそりと後ろ手でドアの鍵を閉めた。
「綺麗なお部屋、ですね」
「何も無いけどね」
ナタニアの言う通り、部屋は良く整理されているが、殺風景だった。8畳程の部屋に、シングルベッドが一つ。傍に小さなサイドテーブルとクッション。窓際に、ワンドアの冷蔵庫。印象的な、紫色のカーテン。
「ラベンダー色の、カーテンですね」
「ええ。前の大学で、卒業する先輩が譲ってくれた。一年の頃、カーテンはレースしかしてないって言ったら、その先輩、すごく驚いていて。それ覚えてくれてたみたい。だからサイズがちょっと合ってないの」
ナタニアは、笑いながら思い出話をしてくれた。
「さあ、上着脱いで。さっと洗って乾かせば、帰る頃には乾くと思う」
そう言って、うさぎの上着を脱がせる。上着を脱いだうさぎは、髪を一つに結っていたので、細い首元が露わになった。簡単に折れてしまいそうな、白く華奢な首だった。
「洗って来る。ちょっと待ってて。あ、そこのクッションにでも、座ってて。寒いけど。エアコン、すぐ暖かくなるから」
「すみません」
うさぎがリビングに座っていると、洗面所の方から、水を流す音が聞こえて来た。うさぎの上着を洗ってくれているのだろう。
「問題、なさそうですね。鍵は、掛けられちゃいましたけど。開けといた方が、いいのかな?」
うさぎは、1人呟く。
すぐに、ナタニアはリビングに戻って来た。
「浴室乾燥で乾かしてるから。夕方には、乾いてるわ。帰りに寄ってって」
「すみません。お世話になってしまいました」
「当然よ。汚したのは、私だもの」
そう言って歩いて来たナタニアは、派手な音を立てて床に倒れ込んだ。実際、上半身はベッドの横に当たったので、顔を切るなどの被害は無かった。
「大丈夫ですか?」
うさぎも驚いて、ナタニアの側に駆け寄ると、体を支えてベッドに横たわらせた。
「ごめんなさい、いつもの貧血。走ったからかな。ちょっと休めば、治るから、待ってて」
そう言いながらも、横たわるナタニアの手は、うさぎの両腕を掴んで離さない。
「私、何か飲み物、持って来ます。すみません、勝手に冷蔵庫、開けますね」
うさぎは少し強引にナタニアの手を離すと、すかさず立ち上がり、目の前にある冷蔵庫に手を伸ばした。
「あ、待って!」
近過ぎて、ナタニアの静止も間に合わなかった。
確かに、違和感はあった。
何故、キッチンがすぐそこにあるのに、こんなリビングの窓辺に、冷蔵庫があるのだろう、とか。ワンドアの冷蔵庫は、珍しいな、とか。すぐ横に見えた、奇抜な紫色のカーテンに意識が持って行かれて、それ以上深く考える事を、やめてしまっていたが。
だから、油断していた。冷蔵庫のドアを開ける、その瞬間まで。
ドアを開けると、青白い女の顔と、目が合った。




