101 いつかのサロメ
辺りが薄暗くなって来た。時計を見ると四時を回っていて、遺跡発掘作業は終了の時間となる。
「疲れたね。ご飯、どうする?」
ナタニアが、隣のダリアに声を掛けると、ダリアはスマートフォンを見ながら、首を横に振った。
「今日は家族で食事する約束してたから、そっちで食べるわ。それより、アルバイト先から連絡入ってた。来週の土日出て欲しいって。悪いけど、来週の発掘ボランティアは、キャンセルするわ」
「オッケー。うさぎ、残念がるだろうけど、仕方ないね」
ナタリアは肩をすぼめて、頷いて見せる。さっさとダリアと別れて、アパートに帰る事にした。ここからは、自転車で5分と掛からない。夕食は、近くのスーパーでお弁当を買って適当に済ます。別段、ダリアと食事に行かなかった事は、残念でも無かった。
ーあの子は、暇つぶし程度にしかならないわ。
気安くヘブライ語で会話出来るのは良いが、それだけだった。さほど気が合うわけでも無い。ダリアは留学で日本に来ているが、実は家族も一緒に来ている。父親がIT企業で勤めていて、たまたま日本のT大学と共同開発をする事情で、数年間こちらに住む予定で家族みんなで越してきた。ダリアも、それに合わせて留学手続きをしたに過ぎない。確かに彼女は日本のアニメが好きで、その話になると饒舌になるが、逆にナタリアは、もう以前ほどアニメに興味は無くなっていた為、あまり楽しく話を合わせる事が出来ないでいた。
ー別に、故郷の話が、したい訳でもなし。
いずれダリアは、家族と共にイスラエルへ帰る日が来る。故郷に別れを告げたナタニアとは、違うのだ。
ーでも、日本語は、疲れるのよね。
英語の方がマシだけど、どうしても専門性の高い考古学分野は、海外からの留学生は皆無に近い。日本にいると、英語を話す機会は極端に少なかった。
やはり、アジア諸国の言語は難しいと思う。比較的韓国語はシンプルだが、中国語や日本語は複雑で覚え難い。
「その点、アナタは良いわね。アナタとは、言葉なんていらないもの」
アパートの部屋に帰って来たナタニアは、キッチンではなく、部屋の窓際に置かれたワンドア冷凍庫を開いて、中から『恋人』を取り出した。
冷たく凍りつく、少女の首を。
「ただいま、空愛羅」
そして、冷たい唇にキスを落とすと、また冷凍庫に仕舞う。
「貴女との愛には、会話はもう必要ないもの」
永遠の愛を、手に入れたと思っていた。
永遠の、最愛だと。
それなのに。
「ごめんなさい、空愛羅。貴女は私に、全てを捧げてくれたというのに」
真っ白な、四角い箱を指でなぞる。中は凍結する程冷たいそれは、外側はほんのりと温かい。
「私、恋をしてしまったかも、しれないわ」
恍惚と微笑む。
何もない、殺風景なワンルーム。フローリングの上にあるのは、ベッドと冷凍庫のみ。ラグすら敷いていないので、足元はひんやりと冷たい。
「いけない事ね。私の永遠は、アナタなのに」
それでも、瞼を閉じると浮かんでくるのは、あの美しい少女。
艶やかな黒髪と、宝石の様に輝く瞳。肌は雪の様に白く、唇は熟れた果実の様に赤く妖艶だった。
「ああ、胸が痛い。でも、こんな事、空愛羅は怒る?」
小さく首を傾げて、ナタニアは寂しく笑う。
「怒らないか。だってアナタ、私の事、愛してた訳じゃなかったもんね。アナタはただ、何もかも捨てたかっただけ。でも、そのくせ全ての人間から、忘れ去られるのが嫌だったのよね。だから、私が丁度よかった。それだけよね」
生前、彼女は言っていた。もう何もいらないと。
それなのに、ひとりぼっちになる事は恐れた。
「バカね。人は皆、独りなのに。側にいてくれるのは、神様だけよ」
日は沈み、部屋は暗闇に染まる。
「ねえ、浮気しても良いかな?」
彼女は答えない。永遠だから。
「冗談よ。せいぜい恋で、留めておくわ」
そう言って、ベットフレームに縛り付けていた、赤いスカーフを手で弄ぶ。彼女が残した、ただ一つの贈り物。
「Shalomシャロム Chaverimハヴェリム
Shalomシャロム Chaverimハヴェリム
Shalomシャロム Shalomシャロム」
故郷の歌を口ずさむ。
故郷が恋しいかといえば、そうでもないが。
それでも、この体に流れる血は、奥底で望むのだ。
約束の地で、また会おうと。
故郷に置いて来た、家族と友人の顔が浮かんで消えた。皆、優しい人達だったが、本当の意味ではナタニアを理解してはくれなかった。困った顔で、言葉を濁すのだ。咎められた方が、まだマシだったかもしれない。
ー結局、永遠の愛を手に入れても、虚しい事に変わりはないのね。
満たされないのは何故?やはり体の繋がりが無ければ、人は満たされないのだろうか?
「肉体の結合は、そんなに大切?それが無ければ、心は満たされないの?繋がれば分かる?」
繋がれば、答えは出るのだろうか?だがそれは、ナタニアにとっては、同時に破戒を意味する。
「ああ、駄目よ。神を裏切るなど、あってはならない。お願いよ、あまり私を惑わさないで」
今日初めて出会った、美しい少女に語りかける。思い出すだけで、胸が弾けそうなほど、高鳴る。
何かに似ている。この感情の揺らぎは。
ああ、そうだ。初恋のあの日だ。
初恋の相手は、オペラ歌手だった。
彼女は驚く程妖艶な衣装で10分間踊り続け、その後すぐに、長い長いモノローグを歌って魅せた。
その一目惚れは、衝撃的だった。そしてそれ以上に、相手が同じ女性であるという事実に、激しい衝撃を受けた。ああ、私は『そう』なのだと。
あの日のオペラの演目は、何だったかしら?
ああ、確か、そうだ。父に見てはいけないと禁じられていた、あの問題作だ。
オスカーワイルドの、戯曲『サロメ』




