100 first kiss
4、5人は座れそうな長椅子なのに、横たわる古谷の足ははみ出ていた。
ーあきれるくらい、長い足。
窓から差し込む陽の光が眩しいのか、古谷は左腕を目の上に当てて、右腕を胸の上に乗せて、静かに寝息を立てている。他には誰もいない。静か過ぎて、壁時計の秒針の音が響いていた。
ー疲れてるんだろうな。
日々の教師の仕事だって、十二分に大変なはずだ。その貴重な休みを削って、解読作業に充てているのだから、疲れないはずがない。土日のどちらかくらい、休めば良いのに。
うさぎは向かい側のソファに座り、しばらく古谷を眺めていた。
高校生の頃に家族と死に別れて、近くに住む親戚の叔父さんの世話になって。高校はうさぎと同じ聖華学院に通っていて、バスケ部に所属していた。大学はM大学の人文学部卒業で。そして谷川とは、中学以来の親友で。
ーそして、小学生から、書道を習っていたんですね。
さっき知った、新情報。
少しずつ、少しずつ。知っている事が、増えて行く。
出会ってから、半年が経とうとしていた。
あとは、甘い物が好きで、本人は気づいてないけど、かなりの活字中毒者で。服は無地の物を好み、柔らかい綿素材が好きで。寒がりで、そして少しだけ、寂しがりで。
自分は、ちゃんと話していただろうか?自分の事を。
ふと、そんな事を思う。
私は、質問ばかりしている気がする。どんな事を問いかけても、この人は何だって答えてくれる。優しく、穏やかに。そう、まるで枕元で、寝物語を聞かせるかのように。
私はちゃんと、話せているだろうか?自分の事、思う事、感じた事。
知りたいと、言ってくれていたのに。
私は彼に、何を知って欲しいのだろう?
ある。伝えたい事。伝わって欲しい事。
うさぎは、音を立てずにソファから立つ。
そっと古谷の傍に立ち、身を屈めた。髪の先が、古谷の手の甲に触れた気がした。古谷の呼吸のリズムが変わる。
「起きちゃ駄目です、古谷さん。私、完全犯罪を、完遂させたいので」
そのまま身を寄せて、落ちて来る自分の横髪を片手で抑えながら、うさぎはかがみ込む。
この唇も、随分見慣れたと思う。
目を閉じて、少し薄い、形の良い唇に、そっと自分の唇を合わせる。
甘くも無く。珈琲の香りでも無く。
いつかの、ブルーミントの香りが鼻をくすぐる。
甘い物が大好きな人だけど、いつもポケットに忍ばせているのは、少しレトロな雰囲気の、ブルーミントの板ガムなのだ。
ー知ってる。
疲れた時や、口寂しい時に、よく噛んでいる。
時間にして、わずか2秒程。爽やかな匂いと、温かい温もりが、唇に残る。
「知ってます?古谷さんからキスをすると犯罪になるのに、私からキスをしても、それはただの、子供の戯れ事で、済まされちゃうんですよ。変な話ですよね」
古谷から離れて、うさぎは囁く。
「起きちゃ、駄目です」
動けない古谷を見て、うさぎは小さく笑った。
「あとこれは、独り言ですが。一応、ファーストキス、です」
足音を殺しながら、離れて行く。
「重たいですよね、分かります。これは、ダイヤの指輪の、仕返し、です」
そのまま、うさぎの気配は消えた。
目の上に乗せていた腕を外し、瞳を閉じたまま、古谷は指で自分の唇に触れる。
「子供の戯れで、済むわけないでしょ」
目を開けると、眩い光が飛び込んで来て、顔を顰めた。
「ねぇ、あと一年、待てんの?俺」




