攫われた花嫁・5
聞きなれない波の音で、よく眠れない日が続いた。
固い寝台にも冷たいシーツにも慣れてきたが、あの波の音にだけは、いまだに慣れることができなかった。
特に天気の悪い日の海は荒れ果てて恐ろしく、寒さも厳しい。
最初から侍女たちは素っ気なかったが、ノエリアが彼女の説明だけでは納得せず、護衛騎士の責任者を呼び出したからか、ますます傍に寄りつかなくなった。
着替えと食事だけはきちんとしてくれるが、ほとんど放置されているような状態だ。
さらに危険だから部屋から出ないようにと言われ、まるで幽閉されているかのような生活だった。
孤独と寒さ。そして、どうなるかわからない不安。
ノエリアはそれらに耐えるように、自分の両肩を抱いた。
ノエリアも、ただ無為に日々を過ごしていたわけではない。ロイナン国王に直接状況を説明してほしいと、何度も手紙を書いた。
だがこの港町に来てから十日ほど経過しても、返事は一度もこない。
あまりにも頻繁に返事を求めたせいか、そのうち侍女も、一度呼び出しただけでは部屋を訪れなくなってしまった。
(どうしたらいいのかしら……)
固い寝台に座ったまま、低い天井を見上げる。
いっそ父に手紙を書いて相談しようかとも思ったが、両国のためにも、あまり事を荒立てないほうがいいと思いとどまった。
それに、こんなことが兄に知れたら大変なことになる。ノエリアがこんなふうに扱われていると知ったら、きっと激怒するだろう。
結婚式は、半年後の予定だ。
もしかしたら、その日までここに閉じ込められるのではないか。
そんな考えさえ浮かんできた。
(……この結婚は、ロイナン王国の国王陛下が望んだことだもの。きっと、そのうち迎えが来るわ)
そう自分に言い聞かせる。
それでも時間は過ぎ去り、焦燥は募るばかり。
滞在するはずの邸宅の準備もまだ整っていないらしく、この宿でもう何日も過ごしている。
虚しい日々に、溜息の数だけが増えていく。
盗賊対策や、王城に居座っているという王妃を説得するために忙しいのかもしれない。
けれど、すべてを事細やかに説明してほしいわけではない。ただきちんと国王自身の口から、こうなるに至った経緯を聞きたいだけだ。
だが、何度も送った伝言にも手紙にも、まったく返答がない。
もうこれ以上、どうしたらいいかわからなかった。
窓から外を眺めることしかできなくて、今日も狭い窓から外の景色を眺めていた。
すると、珍しく人影を見つけた。
どうやらこの町の住人が、海で魚を採っているようだ。耳を澄ませていると、その会話が聞こえてくる。
王都では、王妃の誕生日を祝うために大規模なパーティが開かれたらしい。
人々の生活は苦しいのに、王族だけ贅沢に暮らしているなんて、という愚痴のようだ。
(王妃……。それって、ロイナン国王陛下の以前の……)
離婚に応じずに王城に居座っているという、ロイナン国王の今までの妻のことなのか。
彼女の説得に時間が掛かり、この港町に留められていると思っていた。
それなのに彼女は王都で贅沢に暮らし、しかも誕生日パーティまで開催しているという。
もちろん、ロイナン国王の許可がなければできないことだ。
ロイナン王国の王妃になるために、時間を惜しんで勉強をしてきた。
けれど実際には、王都に入ることもロイナン国王に対面することもできずに、こうして港町に幽閉されている。
(もしかして私は……)
名ばかりの王妃。
ただのお飾りでしかないのだろうか。
本当の王妃はロイナン国王の今までの妻であり、いくら待っていても、彼女が王城を出ることはないのかもしれない。
血筋だけを求められていることはわかっていたが、まさかここまで冷遇されるとは思ってもみなかった。
聞こえてきた噂だけで問いただしても、型通りの返事しか返ってこないことはわかっていた。
もう手紙を何度書いても、侍女にいつまで滞在するのか尋ねても、きっと何も変わらないのだろう。
それでも何かしていないと不安で、返事がないとわかりきっている手紙を書き続けるしかなかった。
この港町に幽閉されてから、もう何日経過したのだろう。
もう日にちを数えることも嫌になって、ただ同じような毎日を送る日々。
この日の夜も、ノエリアは、寝台から抜け出して窓から夜空を見上げていた。
潮の匂いを孕んだ冷たい風が、部屋の中に吹き込む。
少し熱があるのか、火照った身体にはそれが心地良い。あまり寒さが得意ではないので、体調を崩してしまったのかもしれない。
公爵家にいたときなら、熱のあるときにこんなことをしていたら、侍女達は慌てて止めるに違いない。
父も兄も無理をしてはいけないと諫めるだろう。それなのに今のノエリアはひとりきりで、こうして冷たい夜風に身をさらしている。
今までの自分がどんなに大切にされ、愛されていたのか思い知る。
もう二度と帰れない祖国が、たまらなく懐かしい。
唇を噛みしめて夜空を見上げる。
そのとき。
窓の外から声が聞こえてきて、とっさにカーテンの影に身を隠した。
こんな夜中に、誰だろう。
また町の人たちかと思ったが、声は宿の敷地内からだ。
「もう、嫌になるわ。あのお嬢様、本当に王妃になるつもりなのかしら」
聞こえてきたのは、いつも世話をしてくれる無表情な侍女の声だった。
それに続いて、くくく、と男の笑い声がした。
「まあ、そのつもりで来たんだろうからな」
そして男の声は、護衛騎士のものだった。
騎士の言葉に今度は侍女が、くすくすと笑う。
ノエリアは息をひそめて、彼らの会話に耳を傾ける。
「海が見たくて港町に滞在しているうちに、盗賊に殺されることになるとも知らずに、毎日せっせと手紙を書いているらしいな」
「そうなのよ。もう面倒で。結婚式までまだ半年もあるのよ。気が滅入るわ」
殺される。
そんな物騒な言葉が聞こえてきて、ノエリアはカーテンにしがみついた。
血の気が引いて、立っていられなくなる。
(……そういうこと、だったのね)
この港町にこうして留められている理由が、これではっきりとわかった。
八年前に亡くなってしまったカミラ王女のように、ノエリアがこの港町に留まっているのは、海が見たいからという理由になっているらしい。
きっとロイナン国王は、治安が悪いからと必死に止めたことになっているのだろう。
それでも、海を気に入って結婚式の直前までこの町に滞在し続けていたノエリアは、運悪く盗賊の襲撃を受けて殺されてしまう。
それが、ロイナン国王の計画なのか。
イースィ王国では、王家の都合で結ばれた婚約を、あんな形で破棄され。
それでも覚悟を決めてロイナン王国に嫁ぐ決意をしたのに、ロイナン国王はノエリアを冷遇し、最後には殺そうとしている。
ぽたりと涙が床に落ちた。
政略結婚とはいえ、ロイナン王国に嫁ぐからには、役に立ちたいと思って必死に勉強をしてきた。
それらはすべて、何の役にも立たないことだった。
(……泣いている場合ではないわ。何とか、ここから逃げ出さないと)
まだ半年の猶予はあるが、このままでは殺されるのを待つだけだ。
ノエリアはカーテンを握りしめたまま、どうしたらいいのか必死に考えた。
彼らはノエリアがここから逃げ出すとは思っておらず、警備は思っていたよりも杜撰であった。
警戒しているのは、外からの襲撃だけである。
特に夜になると、宿の入り口に見張りが立っているくらいだ。その宿から出るのは難しくないだろう。
けれど問題はその後だ。
さすがに徒歩でイースィ王国まで逃げることはできないし、そもそもこの結婚は国王陛下からの命令である。
戻ったところで、連れ戻されてしまうかもしれない。
父と兄にも迷惑をかけてしまう。
どうしたらいいか悩んでいると、突然、宿の入り口付近が騒がしくなった。




