攫われた花嫁・3
そう決意したノエリアは、翌日から嫁ぎ先であるロイナン王国について本格的に勉強を始めた。
母の祖国であり、幼い頃から縁のあった国のことなので、言語に関しての問題はない。ロイナン王国で育った者と同じように話せるし、書くこともできる。
それでも、少しの間違いが大きな誤解を招くかもしれない。
そう思ったからロイナン王国から教師を派遣してもらい、色々と教わることにした。
語学はもちろん、歴史や宗教、法律など。
さらに礼儀作法などこの国とは違うこともあり、覚えることは山積みだった。
あまりにも頑張り過ぎて熱を出してしまい、父と兄を心配させてしまったこともあった。
だがロイナン国王は、ノエリア自身にはまったく興味がないらしい。
正式に婚約者になっても贈り物ひとつなく、教師を派遣してもらったことに対する礼状にも返答がない。
結婚が決まったあと、婚約者となった女性に贈り物をしたり手紙を送ったりするのは、イースィ王国だけではなく、この大陸では多くの国で見られる貴族の風習だった。
それをまったく無視しているロイナン国王に兄は憤慨していたが、ノエリア自身は、いっそここまで無関心だと清々しいくらいだった。
最初から何も期待していなければ、傷つくこともない。
それでも結婚式に向けての準備は着々と進んでいるらしい。
盗賊達を一掃しようと、国境付近ではかなり激しい戦闘が繰り広げられているようだ。
旅を不安に思うノエリアのために、侍女がそう話してくれた。盗賊達がいなくなれば、安全に国境を通り抜けることができる。
でもそんなに激しい戦闘が起きた場所を通らなければならないのは、やはり恐ろしかった。
それでも輿入れの日が正式に決まれば、もう後戻りはできない。
どんなに忙しくとも、毎日必ず顔を出してくれる父。
兄は、何度もノエリアのもとを訪れ、何か困っていることはないか。不安に思うことはないかと何度も尋ねてくれた。
そのたくさんの愛情が、不安な心を優しく慰めてくれる。
母のお墓にも、父と兄と一緒に行った。
母の祖国に嫁ぎ、王妃になることを報告しながらも、もし母が生きていたら、この結婚をどう思っただろうかと考える。
「ノエリア」
勉強が終わったあと、侍女にお茶を淹れてもらって寛いでいると、兄が部屋を訪れた。
ノエリアは立ち上がり、扉のところまで移動して、兄を迎え入れる。
ここ最近はずっと、ノエリアが休憩を取っている時間に様子を見に来てくれていた。
侍女に兄の分のお茶も淹れてもらい、ゆっくりとふたりで色々な話をした。
母の思い出。
幼い頃に遊んだこと。
懐かしそうに、それでも少し寂しそうに話をしていた兄は、ふと言葉を切った。
結婚式の半年ほど前に、ノエリアは準備や勉強のためにロイナン王国に向かう。
そして、それはもう数日後に迫っていた。
「もし、ロイナン王国で……」
しばらく考え込んでいた兄は、何かを言いかけて、途中で口を閉ざした。
「お兄様?」
ノエリアの結婚について、兄とは何度も話し合いをした。
自分の意志で嫁ぐこと。
もしこの婚姻が成立しなければ、修道院に入ることを伝え、最後には兄もノエリアがロイナン王国に嫁ぐことを承知してくれたはずだ。
だから、今さら反対するとは思えない。
それでも兄の顔は、何かを思いつめているように思える。
「どうかなさったのですか?」
兄の腕に手を置き、覗き込むようにして尋ねると、兄は我に返ったようにノエリアを見た。
その瞳に宿る深い悲しみの色に、思わず息を呑む。
見覚えがある。
母が亡くなったとき、兄はこんな目をしていた。
「ノエリア。よく聞いてほしい」
兄は、自分の腕の上に置かれていた、ノエリアの手をしっかりと握った。
「ロイナン王国は、まだ母上が生きていた頃、何度も訪れていた。でもノエリアはまだ小さかったから、あまり覚えていないと思う」
たしかに兄の言う通りだったので、こくりと頷いた。
「昔、ロイナン王国で、ノエリアはとても怖い思いをしたことがある。もしそのときのことを思い出してしまったら、すぐに連絡してほしい。必ず、ノエリアのもとに駆け付ける」
兄のその言葉に、ノエリアは目を見開く。
怒鳴り声や、争いを異様に怖がるようになってしまったあの事件が、ロイナン王国でのものとは思わなかった。
父も兄も、ノエリアがその日のことを思い出さないようにと、今までその事件にはけっして触れなかった。
だが、ノエリアはそのロイナン王国に嫁がなくてはならない。
兄はその事件の記憶が蘇ってしまうのではないかと、心配してくれたのだろう。
そんな兄に、ノエリアは明るい笑みを見せる。
「まったく覚えていないから、きっと大丈夫だと思う。でも、何か思い出したらすぐに連絡するわ」
「……ああ」
その返答に、兄は安心したように顔を綻ばせる。
兄が、父に何度も逆らってまでノエリアの結婚に反対していたのには、その事件のこともあったのかもしれない。
たしかに事件のことはまったく覚えていない。
けれど、おそらくその事件のときに感じた恐怖は、長年ノエリアを苛み続けていたものだ。その原因である国に、盗賊たちと騎士たちが激しく争った場所を通って向かわなくてはならない。
またひとつ、ロイナン王国に嫁ぐことに対する不安が増える。
それでもノエリアが微笑みを絶やさなかったのは、兄の深い悲しみの表情を見てしまったからだ。
ひとりで隣国に嫁がなくてはならないノエリアもつらい。
だがけっして逆らうことが許されない国王陛下に、領民と兄の安全を盾に娘を差し出すことを強いられた父も、幼い頃の事件を明確に覚えている兄もつらいだろう。
だから、無理にでも笑っていることにした。
そうすれば父も兄も、少しは安心してくれるに違いない。
そうして、いよいよこの国を旅立つ日がやってきた。
父や兄、縁戚などたくさんの人々に見送られ、大勢の騎士に守られて、ノエリアはとうとうイースィ王国を旅立った。
隣国までは、馬車で普通なら八日ほどかかる道のりだ。
だがあまり遠出をしたことのないノエリアの身体を気遣って、日程は余裕を持って組まれている。馬車もかなり速度を落として走っていた。
それでも馬車酔いがひどくて、祖国に別れを惜しむ余裕もなかった。ただ目をきつく閉じて、揺れに耐えていた。
同乗していた侍女も護衛の騎士も心配そうに労わってくれたが、彼女達はロイナン王国との国境までしか同行することができない。
そこからはロイナン王国の騎士と侍女がノエリアに付き添うことになっている。
祖国や家族。そして、幼い頃から付き従ってくれた侍女と騎士。馴染みのすべてと別れて、ノエリアは身ひとつで嫁ぐことになる。
寂しいし心細いが、母もそうやってこの国に嫁いできたのだ。母も通ってきた道だと思うと、励まされる思いがした。
やがて馬車は、両国の騎士に守られた国境に辿り着いた。
そっと窓から伺ってみると、ずらりと並んだ騎士の姿が見えた。周辺もとても静かで、どこにも戦闘の気配はないようだ。
そのことに安堵する。
盗賊達は捕縛されたのかもしれない。
優しく気遣ってくれた侍女や騎士に別れを告げ、とうとうノエリアはロイナン王国に足を踏み入れた。
(今日からはこの国が、私の国になるのね……)
ロイナン王国とイースィ王国は、国土の広さも国力も大差なく、以前は交流も盛んだった。
だが今の国王になってからは、それも途絶えていたようだ。盗賊騒ぎなどがあり、国内を治めるために忙しかったのだろう。
実際にイースィ王国の騎士とは違い、ロイナン王国の騎士は皆、張り詰めたような顔をしていた。
彼らは日々、盗賊達との戦いに暮れているのかもしれない。