攫われた花嫁・2
「ノエリア」
父は、震えるノエリアを慰めるようにして手を握ってくれた。
「大丈夫だ。お前のことは、イースィ王国とロイナン王国の騎士達が、しっかりと守ってくれるだろう。それにロイナン国王も事態の収拾を図っているようだ。じきに制圧される」
「……はい。お父様。私は大丈夫です。お話を続けてください。どうして治安が乱れていることが、ロイナン国王が血筋を気にしていることに繋がるのでしょうか」
父の温もりに心が落ち着き、ノエリアはさらに尋ねた。
少しでも情報を得なければならない。
「その者達は、どうやらただの盗賊ではないらしい。ロイナン国王の存在を揺らがすような、不利な噂を立てているらしい」
「不利な? それはどういう……」
「詳しい話はけっして他国に漏らさないように、情報統制をしているらしい。盗賊達からその噂を耳にした者は、ただちに拘束されている。それくらい徹底しているようだ」
「そんなに……。それだけ、ロイナン国王にとっては都合の悪い噂だということでしょうか」
「おそらくそうであろうな」
ロイナン国王が、王家の血をあまり濃く継いでいないことに関係があるのかもしれない。
だからこそ彼は今までの考えを変え、妻を愛妾だと言って離縁してまで、王家の血を受け継ぐノエリアを妻に迎えようとしているのだ。
(王家の血を引く女性を正妃にして、自らの地位を揺るぎないものにしようとするのはわかる。でも……)
噂を聞いてしまっただけで拘束するような情報統制は、さすがにやりすぎだと思う。そんなことをしたらロイナン国王は恐れられ、ますます国は乱れるだけではないか。
それを口にすると、父は苦々しい表情で頷く。
「その通りだ。セリノは、そんな国にお前を嫁がせるわけにはいかないと、どうしてもこの話を受け入れたくないようだ」
(お兄様……)
兄の愛情は、不安と恐怖に震えていたノエリアの心を優しく包み込んでくれた。
そんな恐ろしい男に目を付けられている兄を、守らなくてはならないと、心を奮い立たせる。
「ですが、私はもう修道院に入るしかないと思っていたのです。こんな私でもお役に立てるのであれば……」
ノエリアは笑顔でそう言う。
手が震えないようにきつく握りしめていることを、父に悟られないようにと願いながら。
それからしばらくして、ノエリアは婚約者であったソルダが王太子を辞して、王城を出たと知らされた。
母の実家である侯爵家に、身を寄せているそうだ。
彼には忠実な配下や親しい友人が大勢いたが、王太子ではなくなった途端、ひとりも残らなかったらしい。
愛するリンダとも引き離され、呆然自失としていると聞いた。
実の父親によって捨て駒にされてしまったことを思うと、さすがに同情する気持ちもあるが、彼とはもう二度と会うこともないだろう。
ノエリアは、ロイナン王国に嫁ぐのだから。
これから先のことを考えると、怖くて心細くて、どうしたらいいのかわからなくなる。
それでも容赦なく時間は過ぎていく。
結婚式の準備も、着々と進んでいることだろう。
ノエリアは部屋の窓から空を見上げた。
明るい陽射し。
空は晴れ渡っていて、今日も晴天のようだ。
けれど上を向いた途端に眩暈がして、その場に倒れてしまいそうになる。
「ノエリア!」
床に崩れ落ちる寸前、誰かがしっかりと支えてくれた。
侍女ではない、力強い腕。
驚いて目を開けると、心配そうな顔をした兄が覗き込んでいる。
「お兄様……」
兄を見た途端、涙が溢れそうになって、ノエリアは慌てて視線を反らした。
「ええと、昨日の夜、本を読んでいたらつい夜更かしをしてしまって。寝不足になってしまったの。もう大丈夫だから……」
そう言い訳をして離れようとしたのに、兄はノエリアを抱いたまま立ち上がった。
「きゃっ、お兄様!」
ふわりと浮き上がる身体。
慌てて逃れようとしたが、見た目に反して力強い兄の腕は、けっしてノエリアを離してはくれない。
「離してください! 私は大丈夫ですから」
そう必死に訴えても、聞き入れてくれなかった。
「そんな顔色で、大丈夫だとは思えないよ。食事も部屋に運ばせるから、今日一日、ゆっくりと休みなさい」
「でもお父様が心配するわ。だから下ろして。朝食が終わったら、きちんと休むから」
必死にそう言ったが、いつも妹には甘いはずの兄が、まったくノエリアの言葉を聞き入れてくれなかった。抱き上げられ、そのまま寝室に連れて行かれてしまう。
「お兄様!」
何とか兄を止めなければと、声を張り上げる。
兄は、抱きかかえていたノエリアの身体を寝台に座らせると、その傍に座り、妹の肩をそっと抱き寄せる。
「泣いていたな?」
優しい声だったが、否定することを許さないような、強い口調だった。
ノエリアはどう答えたらいいのかわからず、でも嘘を言うこともできなくて、こくりと頷く。
昔からどんなに隠し事をしても、兄にだけは見抜かれた。
「理由は?」
「結婚が決まったからには、もう子どもではいられないと思って。少し寂しくなってしまっただけなの」
そう告げると、兄の手が優しくノエリアの髪を撫でる。
「そうだな。いくら家族でも、いつまでも一緒にいることはできない。それくらい、俺もわかっている」
静かな兄の言葉に、こくりと頷く。
「だがノエリアが不幸になるなら、こんな結婚は許さない」
「お兄様?」
今まで優しく髪を撫でてくれた手が、強く握り締められている。
ノエリアは驚いて兄を見た。
優しく穏やかな兄が、こんなにも感情を昂らせているところを見るのは、これで二度目だ。
「でも私の結婚は、ロイナン国王陛下からの要請で……」
父でさえ受け入れることしかできなかった。それを、兄が変えることができるとは思えない。
(お兄様、何を……)
兄は何かを決意してしまった。
ノエリアは、必死に考えを巡らせて、それが何かを知ろうとした。
(私がロイナン国王に望まれたのは、この血筋のため。今のロイナン国王よりも、王家の血が濃いから。でもそれは、お兄様も同じ……)
現に八年前、兄をロイナン国王にという声も上がっている。
あのときとは違い、兄は二十一歳になった。
そして、父に聞いたロイナン王国の内情。
国内が落ち着いていない今の状況で、もし兄が声を上げれば、賛同する者がいる可能性がある。
もしそうなれば。
(私の結婚はなかったことになるかもしれない。でも……)
ロイナン国王は、今度こそ兄を抹殺しようとするだろう。
「お兄様、私は少し驚いただけよ」
だから笑顔でゆっくりと、昂った兄の心を宥めるように穏やかに言う。
「まだまだ先のことだと思っていたから。でも、来年になったら私も十八歳になるわ。この結婚がなかったとしても、もう子どもではいられない。だから、心配しないで」
結婚が悲しいのではなく、家族との別れが少し悲しいだけ。
そう繰り返すと、兄はようやく頷いてくれた。
「……わかった。だが、お前が本当にもう無理だと思ったら、すぐに言え。必ず迎えに行く」
真摯な声。
怖いくらいに真剣な顔に、不安だったノエリアの心が宥められていく。
きっとこれから何があっても、兄と父だけは無条件で味方になってくれる。そう信じることができた。
「ありがとう、お兄様。とても心強いわ」
心からそう言うと、兄もようやく少し、表情を緩めたようだ。
とにかく今日はゆっくりと休むようにと言われ、素直に受け入れる。
「無理はするな。何かあったら、すぐに呼べ」
兄はノエリアの髪をもう一度優しく撫でてそう言うと、静かに部屋を出ていく。
(お兄様……)
その後ろ姿を見送って、目を閉じる。
もう、何があってもこの結婚を断ることはできない。
もしノエリアがこの結婚を拒めば、ロイナン国王にとって兄の存在が脅威になる。
今も正当な血筋を持つノエリアを必要としているくらいだ。きっとロイナン国王も、八年前のことを忘れていない。
目的のためには手段を選ばないという、ロイナン国王から兄を守るためにも、あの国に嫁ぐ必要がある。
(この結婚は、お兄様を守るため)
その決意を、繰り返し胸に刻む。
(私では役不足かもしれない。でもロイナン王国にも国王陛下にも、できるだけのことはしよう)
政略結婚とはいえ、一国の王妃になるのだから、きちんと役割を果たさなければならない。