白薔薇の約束・4
すぐにでも馬車から飛び出そうとするノエリアを、兄は慌てて制した。
「まずは状況を把握しなければ。部下を調査に向かわせる。もう少し待ちなさい」
「でも!」
カミラが追われているのだ。
もしロイナン王国の兵士に捕われてしまえば、そのまま身分を公表することなく、盗賊として殺されてしまうだろう。
今までのロイナン国王の手口を知っているだけに、ただ情報を待つことなんてできなかった。
「ノエリア、落ち着いて。調査の結果が待てないのであれば、もう一度荷馬車に乗り換えて、国境近くまで移動する。そこなら何かあっても駆け付けられるし、調査の結果もすぐに届くだろう」
そう諭されて、ノエリアもようやく少しだけ冷静になることができた。
兄の指示で護衛が動きやすい服を用意してくれたので、ふたりとも商人に扮して荷馬車に乗る。
「お兄様、ごめんなさい」
揺れる荷馬車の中で、ノエリアは兄に謝罪した。
「何があってもカミラ様をお助けしないと。そう思ったら、ただ待っていることができなくて……」
「そうだね。今までのノエリアなら考えられないことだ。少し驚いたよ」
兄はそう言うと、そっとノエリアの頬を撫でる。
「すまない。俺の方こそ、お前の心情を気遣う余裕をなくしていた。ただ安全な場所で待っていろと言われても、納得できなかったね?」
「……はい」
ノエリアは素直に頷いた。
たしかに以前の自分ならば、兄の指示通りに動いていた。
けれど詳しく調査をしていたとはいえ、ずっとイースィ王国に留まっていた兄よりも、ロイナン王国に赴き、アルブレヒト達と直に接したノエリアの方がずっと、現地の状況を知っている。
ロイナン国王は卑劣な男だ。
そしてカミラとライードは、すぐに助け出さなくてはならないくらい、危険な状態である。
そう訴えると、兄は頷いた。
「わかった。すぐに動けるように、準備をしておく」
馬車の窓から護衛にそう指示して、兄は揺れる荷馬車の中で、ノエリアを見て感慨深そうに目を細める。
「それにしても、おっとりとして世間知らずだったノエリアは、もういないということか。きっと良い王妃になれるだろう」
もちろん、ノエリアが嫁ぐべきなのは、偽りの王ではない。このロイナン王国の正当な後継者である、アルブレヒトだ。
そう言われて、恥ずかしくなって俯く。
「でも、お兄様。アルにはカミラ様が」
「……それがまだ、納得できなくてね」
兄はそう言うと、難しい顔をした。
「幼い頃から、アルブレヒトとノエリアの仲睦まじい様子は、ずっと見てきた。何をしていても意見が合い、楽しそうにしている様子を見て、運命の恋というものが存在すること。幼いうちにその相手に出逢うこともあるのだと知ったくらいだ」
だからこそ、アルブレヒトがノエリア以外の女性を愛することなどあり得ない。
兄はそう断言した。
「本当にカミラ王女殿下と恋仲だというのなら、それが本物のアルブレヒトであるのかさえ怪しいと思う。それに、決定的な言葉をふたりから聞いたわけではないだろう?」
「……それは。でも、アルは腕に残った傷跡を、大切な人を守れた証だと」
そう言いかけて、ノエリアは思い出す。
アルブレヒトの腕に残された傷跡は、カミラを庇ったものではなかった。
兄と、そしてノエリアを守ってくれたときのものだ。
「……っ」
アルブレヒトの大切な人は、自分かもしれない。
そう思った途端に、ノエリアは真っ赤になって両手で頬を押さえた。
記憶がまだ曖昧なことが、ひどくもどかしい。
あんなに恐ろしくて考えたくもなかった過去のことが、今はすべて思い出したくてたまらない。
八年間、彼の想いは変わることはなかったのだと思うのは、あまりにも自惚れているだろうか。
どちらにしろ、あのときのプロポーズの答えをきちんと彼に伝えたい。その結果、振られたとしてもかまわない。
ただ今は、少しでも早くアルブレヒトに会いたかった。
やがて荷馬車は、国境に辿り着いた。
ノエリアに馬車の中に留まっているように告げると、兄は外に出て、配下の者に詳しい話を聞いている。
ノエリアも耳を澄まして、その話を聞く。
盗み聞きなんてはしたないと思うが、兄はノエリアを気遣って、具体的な話をしてくれないかもしれない。
聞こえてきたのは、ロイナン王国の兵士に追われたカミラとライードは、国境近くにある町に逃げ込んだこと。その町を、兵士達が念入りに探していること。兄の配下も探しているが、まだ発見できていないという話だった。
どうしたらいいだろう。
どうすれば、兵士達よりも先にカミラを保護することができるだろう。
必死に考えを巡らせていたノエリアは、荷馬車に積まれていた荷物に、ふと目を止めた。
銀色の、美しい絹糸。
まるでカミラの髪のようだ。
(そうだわ、これを……)
ローブのフードを目深に被り、この絹糸を少し見えるようにすれば、カミラの身代わりができるのではないか。ノエリアが囮として兵士達を引きつけ、その間にカミラとライードを救出すればいい。
荷馬車の中から兄にそう持ち掛けると、当然のように反対された。
「ノエリアにそんなことをさせるわけにはいかない」
「でもお兄様。このままではカミラ様が殺されてしまうわ。一刻も早く、カミラ様とライードさんを助け出さないと」
「囮なら、俺がする」
「駄目よ。お兄様では背が高すぎるわ。私がちょうど良いの」
兵士達は、徹底的にカミラを探し出そうとするだろう。もしこちらが先にカミラ達を見つけたとしても、追手に見つからないように国境を抜けるのは難しい。
誰かが囮になって追手を引きつけ、その間にカミラ達に、イースィ王国に逃げ込んでもらうしかないだろう。
こちらには女性がひとりもいないから、ノエリアが行くしかない。もうその覚悟も決めていた。
「……俺も一緒に行く」
けれどしばらく苦悩していた兄が、やがてそう言った。
「え? でも……」
「ノエリアだけを危険に晒すことはできない。俺とノエリアで身代わりになり、兵士達を引きつける。その間に、カミラ王女殿下とその護衛を保護しよう」
「お兄様、私は」
兄の身を危険に晒すつもりはなかった。
何とか説得しようとしたが、兄は聞き入れてくれなかった。
「たとえ意志に反した行動をして嫌われたとしても、お前とロイナン国王との婚姻を阻止すればよかった。そう何度も後悔した。もう二度と、ひとりで敵地に向かわせたりはしない」
そう言われてしまえば、もう何も言えなかった。
過去を忘れてしまったノエリアに詳しい事情を話すこともできず、見送るしかなかった兄は、ずっと後悔していたのだろう。
こうしてノエリアと兄は全身が隠れるローブを身に纏い、兄は剣を持ち、ノエリアは銀の絹糸を髪の毛のようにフードの下から垂らした。
もちろん、完全にふたりだけではない。
兄の配下は二手に分かれ、ほとんどはカミラの捜索に当たるようだが、中でも腕の立つ者がふたり、ノエリアと兄を陰から護衛してくれる。
その配下に何度も思いとどまるように説得されたが、まるで聞き入れなかった兄に、ノエリアは思わず言う。
「お兄様は、頑固ね」
「お前ほどではないよ。……行くか」
「はい」
そしてノエリアは兄と手を取り合い、町の中に駆けて行った。
騎士団の追撃は、思っていた以上に激しかった。
町に入ってすぐに、兄はノエリアの手を引いて、裏通りに入った。そこでしばらく情報を集め、相手の様子を探るつもりだった。
けれど、裏通りに入った途端に、ロイナン王国の兵士に見つかってしまった。それを何とか路地を潜り抜け、地下水路まで通って逃げてきた。
走り慣れていないノエリアは、もう呼吸すら苦しくて、兄に支えられてようやく立っているような有様だった。
囮になって、カミラを逃がす。
彼女を無事に助け出すにはそれしかないと思い、兄まで巻き込んで実行してしまったが、自分の身体がこんなに弱いとは思わなかった。
「……ごめんなさい」
ノエリアが倒れないように支えながら、周囲を警戒している兄に謝罪する。けれど兄は、そんなノエリアをむしろ褒めるように、優しく髪を撫でる。
「よく頑張った。恐ろしかっただろうに」
「あ……」
そう言われて初めて、怒鳴り声を上げ、剣を抜いて追いかけられていたのに、そのことにはまったく恐怖を覚えなかったことに気が付いて、思わず声を上げる。
「ノエリア?」
「お兄様、私……。追いかけてくる兵士達が、あまり怖くなかったわ。それよりも、カミラ様を助けるために走らなくてはと、ただそれだけで」
以前のノエリアならあり得なかった。
兄も驚いた様子で、ノエリアを見つめる。
過去を思い出し、恐怖を覚えていた理由を知ったことで、克服することができたのかもしれない。
「……もっと早く、過去のことを話していれば」
「ううん、それは違うわ。私がこうして克服できたのも、お兄様とお父様が、今まで私を大切に守ってくれたから」
過去を隠さずに伝えていれば、もっと早く克服できたのではないか。
そう後悔する兄に、今だからこそだと、ノエリアは必死に伝えた。
「ロイナン王国に行く前の私だったらきっと、ますます恐怖を募らせていた。外に出ることも怖くなっていたかもしれない。お兄様とお父様が見守ってくれて、アルが、私が思い出すまで何も言わずに待っていてくれたからこそ、こうして克服できたのよ」
「……そうか」
ノエリアの訴えに、兄はようやく表情を緩ませて、ノエリアの肩を抱いた。
「それでも過去を乗り越えたのはノエリア自身の力だ。よく頑張った」
優しくそう言ってくれる兄に、思わず涙がこぼれそうになる。
(駄目……。私はもう、泣かないわ)
アルブレヒトとカミラが戦い抜いた八年間、ノエリアはただ守られていただけだった。
父と兄も、ノエリアを守りながらも、イースィ国王、そしてロイナン国王という最高権力を持つ者と戦い続けてきたのだ。
(今度は私が、皆の役に立ってみせる)
そして今度こそアルブレヒトに、あの日の返事を伝えたい。




