白薔薇の約束・3
「海辺のあの事件のせいで、私は記憶をなくしてしまった……」
「そうだ。ノエリアはロイナン王国で過ごした日々をすべて忘れてしまっていた。それだけではない。あの事件を彷彿させるようなもの、大声だとか暴力的なものを普通以上に恐れるようになっていたから、父と母は無理に思い出させるようなことはしないと決めていた」
それからノエリアは、ロイナン王国を訪れることはなかった。
だが兄は怪我をしたアルブレヒトを見舞って、何度も彼のもとに通っていたらしい。
「アルブレヒトは、ノエリアのことをとても心配していた。自分が護衛の者を引き連れていったことが、男達を刺激してしまったと」
「そんな。もともとは私が、ひとりであんなところに行ったから」
迂闊な行動が、兄とアルブレヒトを危険に晒してしまったのだ。
「俺は……」
兄は何かを言いかけて、言葉を切った。
「お兄様?」
「俺はノエリアの心が癒えるまで、手紙も取り次がないと言ってしまった。さらに、あの事件のせいで、アルブレヒトが斬られたせいで妹は記憶を失ってしまったと。アルブレヒトは、俺達を命懸けで守ってくれたのに」
その年に、身体の弱かった母も亡くなっている。
母を亡くし、心に傷を負った妹を抱えた兄は、とてもつらかったのではないかと思う。だからアルブレヒトにそんなことを言ってしまったのだ。
だがその翌年に、アルブレヒトは馬車の事故で亡くなったと知らされた。
そのときのことを思い出したのか、兄の顔が悲痛に歪む。
「お兄様には話していなかったけれど、私、九年前にアルブレヒトにプロポーズされていたの」
昔の記憶を手繰りながらそう告げると、兄は驚いたようだ。
「九年前に?」
「そう。来年の誕生日までに考えてほしいと言われて、まだ返事をしていなかったの」
白薔薇を差し出してくれたアルブレヒトの姿を思い出し、ノエリアは目を閉じる。
父が複雑そうな顔をしていたから、何となく兄にも言えなかった。ただ母は、とても喜んでくれた。
兄はどう思っただろう。
そっと伺うと、兄は優しい顔をしていた。
「そうか。アルブレヒトに再会したら、今度こそ返事をすればいい」
その問いに頷くことはできなかった。
「……それはできないわ。だってアルブレヒトの傍には、もうカミラ様がいらっしゃるから」
ふたりには、八年間かけて築いてきた絆がある。
「カミラ王女殿下と、アルブレヒトが?」
だが、それを聞いた兄の表情が、急に険しくなる。
ノエリアにプロポーズまでしておいて、他の女性と親密になるはずがない。そんなことは許されないと思っているのだろう。
ノエリアは、そんな兄の腕に手を掛ける。
「アルブレヒトが番つらかったとき、傍で支えていたのはカミラ様よ。私には何もできなかった。それどころか、自分を守るためにアルブレヒトのことさえ忘れていた」
たしかに愛する人が目の前で斬られてしまったら、恐ろしくてたまらない。今だってきっと、恐怖で動けなくなる。
それでも、逃げるべきではなかった。
アルブレヒトのことを、忘れてはいけなかったのだ。
「彼が必死に戦っていた八年間。私はただお父様やお兄様に守られていただけ。そんな私が、何を言えるの?」
「ノエリア」
兄は優しく肩を抱いてくれた。
「お前は何も悪くない。あれは恐ろしい事件だった。まだ幼かったお前が、自分を守ったことは間違いではないよ」
「お兄様……」
優しい兄の慰めに素直に身を委ねながら、ノエリアは瞳を閉じる。
(それでも私は、アルブレヒトを忘れるべきではなかったのよ……)
だが、どんなに後悔しても、もう過去には戻れない。
「ありがとう」
ノエリアは心の痛みを押し隠して、兄の言葉に慰められたふりをした。
アルブレヒトとは違い、兄はそれにまったく気が付かず、安堵したような顔をする。
「俺はあの日の約束を果たすために、アルブレヒトのもとに向かう。だからノエリアは王都に……」
「いいえ、お兄様」
ノエリアは首を横に振り、兄を見つめる。
「イースィ王国の王都も、安全とはいえないわ。カミラ様は、あのままイースィ王国に戻っていたら殺されていたかもしれないとおっしゃっていたの」
イースィ王国の国王陛下が、すべての元凶だった。
それを、どうやって兄に伝えたらいいのか悩んでいた。いくら兄でも、にわかには信じがたいことだろう。
「……やはり、そうか」
そう思っていたのに、兄はそれを予想していたかのような言葉を言い、ノエリアを驚かせた。
「お兄様、どうして?」
カミラとアルブレヒトの生存さえ今知ったばかりの兄が、どうしてこの一連の事件の黒幕がイースィ王国の国王陛下だと予想していたのか。
困惑するノエリアに、兄は静かに語ってくれた。
「俺はアルブレヒトが亡くなったと聞かされた日からずっと、あの事件のことを調べていた」
最初は、遺体さえ見つからなかったと言われていた友をせめて弔いたいと、父の手を借りて捜索していたようだ。
そのうち、あれほどの事故なのに目撃者がひとりもいないこと。護衛などで同行した者は大勢いたにも関わらず、生存者が皆無だったことに不信を覚えて、独自に調べるようになったと兄は言う。
まだ公爵家の嫡男でしかない兄がこれほどの数の配下を持ち、ロイナン王国に進出するほど大きな商会と懇意にしているのも、すべてそのためだったのだ。
「アルブレヒトに代わって王になったあの男のことも、ずっと見ていた。もしアルブレヒトが亡くなったとされていたあの事件が、本当の事故で。あの男が国王としての職務を全うするのであれば、遠くから見守るつもりだった。だが……」
事故には不信な点が多すぎて、そしてロイナン国王となったあの男は、横暴だった。
「アルブレヒトが継ぐはずだった国だ。それを、あんな男の手に渡したままでいるものか。ノエリアの結婚が決まるずっと前から、俺はそう思っていたよ」
兄の怖いほど真剣な瞳に、ノエリアは息を呑んだ。
何度も調査を重ね、ロイナン王国の実際を探っていた兄は、やがてその黒幕であるイースィ王国の国王までたどり着いていた。
だからノエリアの言葉にも驚かずに、静かに頷いたのだ。
兄は、残されたロイナン王家の血筋の中で、一番上位の男性である。そんな兄が立ち上がれば、今の状況を考えると、ロイナン国王を王位から引き摺り下ろすことも可能だったかもしれない。
「だがそんな俺の動きを、イースィ国王は察していたのだろう。ノエリアがあんな形で婚約を破棄され、ロイナン王国に嫁くことになってしまったのは、あまりにも性急に動いた俺のせいだ。そう父にも叱られた」
「……お兄様の?」
「そうだ。妹がロイナン王国の王妃になれば、さすがにもう手が出せないと思ったのだろう」
同時に父はイースィ国王に、ロイナン王家の血を引く息子と娘の命が危ないと警告され、ノエリアは兄の命を守るためにはそれしかないと、覚悟を決めた。
兄はそんなノエリアの覚悟に、立ち上がることを躊躇した。
家族の愛を利用した、卑劣な手だ。
「国王陛下は、最終的にどうなさるつもりだったのでしょう」
カミラは、イースィ国王陛下の目的は、ロイナン王国とイースィ王国をひとつの国にすることだと言っていた。その目的のためには、最終的には手を組んだはずのイバンが邪魔になるはずだ。
「国王の素質などまるでないのに、権力に固執するイバンを王位につけ、他の王位継承権を持つ者を抹殺させる。そして、あまりにも横暴なイバンを、隣国の王として見過ごすことはできないとして、いずれ倒すつもりだったようだ」
父が調査した結果はそうだったと、兄は語る。
「だが、イバンは予想以上の暴君だったな。表向きだけでもノエリアを正妃として大切にし、王城の奥深くに匿ってしまえば、俺は何もできなかった」
だがイバンは、ノエリアを王都にさえ入らせずに警備の手薄な宿に留め置き、アルブレヒトに奪還されてしまったのだ。
兄の言うように、イバンがここまで横暴だとは、さすがにイースィ国王も思わなかったことだろう。港町に留め置かれたときは、これからどうなるかと不安で仕方がなかったが、それが幸いだったようだ。
「ノエリアが安全な場所にいてくれたら、俺も安心して動くことができる。必ずアルブレヒトとカミラ王女殿下を救出する。だから兄を信じて、ここは任せてほしい」
「……お兄様」
そこまで言われてしまえば、もう何も言えない。
ノエリアは俯いて、両手を握りしめた。
「そう、ですね」
震える声でそう答えるしかなかった。
涙が溢れてきて、静かに俯く。
兄と一緒に行動しても、できることなど何もない。むしろ足手まといになってしまう可能性の方が高い。
それなのに、涙が止まらなくて。
「ノエリア」
兄は困ったように、ノエリアの頬に流れる涙を優しく拭う。
「アルブレヒトなら、お前を泣かせるようなことしないだろうな」
「……ごめんなさい。泣いてもお兄様を困らせるだけだってわかっているのに」
涙を拭い、微笑もうとした。
けれど、ふいに周囲が急に騒がしくなる。
兄はノエリアを庇うように立ち、馬車の外の様子を伺う。
馬車を守っていた護衛に何があったのか問うと、どうやら国境の向こう側で戦闘があったらしいと伝えてくれた。
「ロイナン王国の兵士が、誰かを追っているようです」
それが、男女ふたりであること。
ふたりは、イースィ王国を目指して逃げていることを聞くと、ノエリアは立ち上がった。
「お兄様、間違いなくカミラ様とライードさんだわ。早くふたりを助けないと」




