白薔薇の約束・2
「まず何よりも先に、カミラ王女殿下を保護しなければならない。イバンも、王女殿下の動きには細心の注意を払っているはずだ。アルは……」
兄はアルブレヒトの名を口にしたあと、こみあげてきた感情を抑え込むかのように口を閉ざした。
「お兄様」
「生きていたとは思わなかった。本当に、アルブレヒトなのか」
その声には信じられないという思いと、本当であってほしいという祈りが込められていた。
ノエリアが想像していた以上に、兄とアルブレヒトは親しかったらしい。
「アルも、お兄様のことを話していたわ。とても親しい友人だったと。それに、お兄様ならば必ず私を探し出して、救出してくれると確信していたみたい」
その言葉に、兄の顔に笑みが戻った。
「そうか。俺の動きがアルブレヒトの期待通りならば、ノエリアが急に姿を消しても焦ることはないだろう。だとしたら、次は……」
兄は言葉を切り、ついさきほどノエリアが通過してきた国境のほうを見つめる。
「アルブレヒトが俺達に期待しているのは、カミラ王女殿下を救出することか」
「ええ。きっとアルは、私が無事にお兄様のもとに辿り着いて、こうしてすべてを話していることを想定しているはず。だから……」
ノエリアの言葉を受けて、兄も頷いた。
「おそらく王女殿下はもう、国境近くにまで移動しているだろう。俺はカミラ王女殿下の救出に向かう。ノエリアはこのまま父の元に向かえ」
「王都の屋敷にいるお父様のところに?」
「そうだ。その指輪を持ち帰り、父にすべてを話してほしい」
「でもお兄様。ここからだと十日もかかってしまうわ」
そう抗議してみたが、兄は自分を安全な場所に匿いたいと思っているようだ。
「その間にすべて終わっているだろう。もう何も心配しなくていい。ノエリアは今までよく頑張った。あとは安全な場所で待っていなさい」
「……」
今までのノエリアだったら、兄の言う通りにしていた。
ロイナン王国に戻れば、今度こそ激しい戦闘を目の当たりにすることになる。巻き込まれてしまう可能性だってあるかもしれない。
「でも……。アルが」
「アルブレヒトのことも大丈夫だ。カミラ王女殿下を無事に救出したら、そのままアルブレヒトと合流する」
「お兄様が?」
兄だって公爵家の嫡男だ。激しい戦闘など経験がない。そんな場所に兄が向かうかと思うと、怖かった。
だが兄は、決意を込めた瞳でノエリアを見つめる。
「九年前に約束をした。アルブレヒトが危機に陥るようなことがあれば、今度は俺が助けると」
「約束……」
「ああ。八年前の事故で、それを果たす機会は永遠に失われたと思っていた。だが、アルブレヒトは生きていた。ならば俺は、彼のもとに行かなくてはならない」
九年前の約束。
それを聞いた途端、胸がどきりとした。
そう、ノエリアはそれを知っている。
兄がアルと、ロイナン王国の王太子アルブレヒトと交わしていた会話を、知っている。
「ああ、お兄様、アルの左腕の傷痕……。あれは八年前の事件のものではなく……」
目の前がくらりとした。
兄が慌てて、倒れかかった身体を支えてくれる。
その腕に縋りながら、ノエリアは兄を見つめた。
胸の鼓動はどんどん速くなっている。
でも、聞かなければならない。
「……もう少し、昔のものでしょうか」
「ああ、九年前のことだ。何か思い出したのか?」
過去の記憶があいまいなことは、兄もよく知っている。
「少しだけ」
「昔のことは、どれくらい覚えていた?」
だが兄もまたノエリアを気遣い、無理に思い出す必要はないと言っていた。だからこう聞かれたのは初めてだ。
「……お母様が亡くなった日のことは、よく覚えています。でも他のことは、何もわかりませんでした」
亡くなったことは覚えていても、それが何歳の頃なのか、はっきりとしなかった。
「そうか。やはりアルブレヒトのことは何も覚えていないのか」
「はい。アルは、最初に会ったときも、私のことを知っている素振りはまったく見せませんでした。お兄様と友人だったと聞いたときも、何も言いませんでした。私が忘れているのなら、無理に思い出す必要はないと」
でも、兄の言葉で少し思い出したことがあった。
「左腕のあの傷はカミラ様ではなく、私達を……」
「そう、俺達を庇って負った傷だ」
兄はノエリアの記憶を補うように、ゆっくりと話し始める。
「俺とアルブレヒトが初めて会ったのは、まだノエリアが生まれる前だ。ロイナン王国の王族だった母は、父と些細なことでは喧嘩をしては、ロイナン王国に逃げ込んでいたらしい」
両親の仲はけっして悪かったわけではない。
ただ爵位を継いだばかりで忙しかった父と、寂しがりやの母が、少しすれ違っていただけだと兄は言った。
ノエリアがまだ幼くて覚えていなかったようなことも、四歳年上の兄はよく覚えているようだ。
「そんなに前から……。それでは私も?」
「ノエリアが初めて行ったのは、六歳のときだ。人見知りのノエリアが、アルブレヒトにはすぐ懐いて、驚いたことを覚えている」
ノエリアは過去の記憶を探るように目を閉じる。
まだあいまいなところが多いが、わずかに思い出したことをきっかけに、少しずつ思い出してくる。
「アルブレヒトは優しかったから。泣いている私に手を差し伸べて、お菓子をくれたの。とても嬉しかった……」
ぼんやりと思い出す、幼い頃の自分とアルブレヒトの姿。
兄はもうすっかり彼と親友になっていたから、ふたりとも事あるごとにロイナン王国に行きたがり、父を困らせていた。
「お兄様、ロイナン王国の王城に、薔薇の咲いている庭園はある?」
「ああ、ノエリアはそこがとても気に入っていた。よくアルブレヒトを連れて白薔薇を見に行っていたよ」
「……白薔薇」
思い出した。
ノエリアの目から、涙が零れ落ちる。
最初からロイナン王国の王城に行くことができたら、すぐに思い出していたのかもしれない。
白くそびえたつ王城は、白薔薇に囲まれていた。
その光景を、はっきりと思い描くことができる。
ノエリアのお気に入りは、城の裏側にある庭園だった。
兄がいなかったとき、ノエリアはよくアルブレヒトとその庭園を訪れていた。
手が傷つかないように棘を取り、白薔薇を差し出してくれたのは、 まだ幼さの残る、十二歳のアルブレヒトだった。
あれは兄と一緒にロイナン王国を訪れるようになって、一年ほど経過した頃だ。
七歳になったノエリアは頬を染めて、それを受け取る。
その頃から本が好きだったノエリアにとって、アルブレヒトは本物の王子様だった。
(ああ、思い出したわ。私は、あなたがとても好きだった……)
ロイナン王国の王城にある庭園で、幼いノエリアはひとりの少年と一緒に歩いていた。
彼はせわしくなく動き回るノエリアが危なくないように優しく見守り、彼女の要求に嫌な顔ひとつせずに付き合ってくれた。
「ねえ、アルブレヒト。白薔薇を摘んでもいい?」
そんな言葉にも、とびきりの笑顔で頷いてくれる。
「もちろん。でもノエリア、薔薇には棘があるからね。指が傷つくといけないから、僕が摘んであげるよ」
アルブレヒトはそう言って白薔薇を摘み、棘を丁寧に取り除いてくれた。
「ありがとう、アル。大好きよ。ずっと一緒にいてね」
「もちろん。だから僕のためにロイナン王国に来て、この国の王妃になってください」
そう言ってアルブレヒトは、白薔薇を差し出したのだ。
返事はまた、今度会うときに。
彼はそう言っていたのに、その日は訪れなかった。
その事件は、その翌日に起こってしまった。
兄とノエリア、そしてアルブレヒトはその日、ノエリア達の母とともに避暑地である海辺の町を訪れていた。
そこは母がまだこの国にいた頃、毎年訪れていたお気に入りの場所だった。今年は、ノエリアのたっての願いで、アルブレヒトも一緒に来ていた。
とても楽しかった。
綺麗な海に、母と兄。
そして大好きなアルブレヒト。
父がいないことだけは残念だったけれど、とても楽しくて、ずっとはしゃいでいたことを思い出す。
海辺で綺麗な貝殻を拾うのに夢中になっていたノエリアは、あまりにもはしゃぎすきで、疲れてしまった。強すぎる陽射しを避けようと、兄達から離れてつい物陰に入ってしまう。
もちろん護衛の者はいたが、彼らの注意は主に王太子のアルブレヒトに向けられていた。
ふと気が付けば、ノエリアはいつのまにか二人組の男達に囲まれていた。逃げ出す間もなく抱き上げられて、連れ去られそうになってしまう。
悲鳴を聞きつけ、まず兄が駆けつけてくれた。
だが当時は兄もまだ、十二歳の子どもだった。
妹を助けるために駆けつけたものの、ノエリアを攫おうとした大男にあっさりと振り払われ、砂浜に叩きつけられてしまう。
「アルブレヒト! 助けて!」
このままでは兄が殺されてしまう。そう思ったノエリアは、必死に彼の名を呼んだ。
アルブレヒトはその声を聞き、護衛の者を連れてすぐに駆けつけてくれた。
だが男達は大勢の兵に囲まれ、逃げられないと見るや、持っていた抜き身の剣をノエリアに振り下ろしたのだ。
そのときの恐怖が蘇り、身を震わせる。
迫る凶刃から最初にノエリアを庇ってくれたのは、すぐに立ち上がって男に立ち向かった兄だった。自らの身をもって妹を守ろうとした兄の前に、アルブレヒトが立ち塞がる。
男の剣は彼の左腕を切り裂いた。
もしアルブレヒトが庇ってくれなかったら、兄は命を落としていたかもしれない。
だが助かったものの、ノエリアはショック状態になってしまっていた。
殺されそうになったこと。
兄が自分を庇って、切られそうになったこと。
そして、そんなふたりを庇ってアルブレヒトが切られて血を流したこと。
それは、七歳のノエリアにとってあまりにも衝撃的なできごとだった。
(ああ、アルブレヒト)
ノエリアの頬に涙が伝う。
どうして彼のことまで忘れてしまったのだろう。
あのときはわからなかった。
でも幽閉されていた海辺の町から救い出してくれたのは、ノエリアの大切な、愛するアルブレヒトだったのだ。
幼い恋かもしれない。
でもそれは、いずれ実を結ぶはずだった。
父は複雑そうな顔をしていたが、ノエリアの母とアルブレヒトの両親は、ふたりの仲が良いことをとても喜んでくれていた。
それなのに。




