白薔薇の約束・1
その荷馬車は、イースィ王国の国境に向かう道を走っていた。
かなり大きな街道で、道も整備されている。だが貴族が所有する馬車とは違い、商人の荷馬車はよく揺れた。
左右に商品が積まれた荷馬車はイースィ王国でもかなり大きな商会のもので、数年前にはロイナン王国にも支店が作られていた。
荷物を運ぶために毎日のように出入りしているせいか、ロイナン王国の騎士もあまり警戒していないようだ。
ノエリアは、その荷馬車の中に潜んでいた。
この国に嫁ぐことが決まるまで、ほとんど外に出たことのないノエリアは知らなかったが、兄のセリノはこの商会と懇意にしているらしい。
だからこの馬車に同乗している者は皆、商人の恰好をしていたが、すべて兄の手の者と入れ替わっていた。
「ここから先は、さらに揺れるかもしれません。少し速度を落とされたほうがよろしいかと」
最初にノエリアを救出した男が気遣うようにそう言ってくれたが、ノエリアは馬車酔いで真っ青な顔をしながらも、首を横に振る。
「一刻も早く、お兄様と会わなくてはなりません。私のことは大丈夫ですから、急がせてください」
ノエリアは外の様子を伺いながらそう言った。
商会の者や兄が事前に手を回してくれていたようで、この荷馬車がロイナン王国の騎士に呼び止められることはなかった。
それでも、この国に来たときよりも警備が物々しくなっていると感じる。
あの山間の邸宅に残っているアルブレヒトとカミラ。そして仲間達の身が心配でたまらなかった。
(早く、ふたりのことをお兄様に伝えないと)
兄ならば、カミラとアルブレヒトが生きていたと知れば、きっと手を尽くして救出してくれるに違いない。
だが、間に合うだろうか。
「お父様とお兄様はどこに?」
「公爵閣下は、イースィ王国の王都にいらっしゃいます。ですが、セリノ様は国境に一番近い町で、ノエリア様の情報をお待ちです」
それを聞いて、ほっと息を吐いた。
兄がすぐ近くに来ているというのは、朗報だ。国境からイースィ王国の王都までは十日もかかる。その時間を短縮できる。
「お兄様がいらっしゃるのね。お父様も、このことはご存知なの?」
「はい。セリノ様がすべて、閣下にも報告されております」
やがて荷馬車は、その翌日の夜には、ロイナン王国とイースィ王国の国境に辿り着くことができた。
無事に通り抜けることができるのか緊張したが、必ずしなければならないはずの荷物検査もなく、すんなりと通過することができた。
事前に警備兵に、多額のお金を渡していたらしい。
助かったのは事実だが、以前のロイナン王国ではあり得なかったことだ。
すっかりと変わってしまった母の祖国。
でもロイナン王国にはまだ、アルブレヒトが残されている。
彼が王となれば、きっと昔のように美しく穏やかな国に戻るに違いない。ノエリアはそう確信していた。
「すぐにお兄様にお会いしたいの。国境を越えても、休憩はいらないわ。一刻を争うことよ」
「……承知いたしました」
彼は一瞬だけ気遣わしげな視線を向けてきたが、ノエリアの強い眼差しを受けて、それを承諾した。
おそらく兄には、充分に休ませるように言われていたのだろう。
たしかに身体はとても疲れていたが、それよりも今は、やらなければならないことがある。
その気持ちが強すぎて、イースィ王国に戻ってきたというのに、感傷的になることもなかった。
「ノエリア様、もうすぐ町に入ります。そこでセリノ様がお待ちです」
「……ええ、ありがとう」
言葉通りに、やがて馬車はゆっくりと止まり、馬車を操っていた御者が誰かに丁寧な口調で話しかけている。
それに答える若い男の声。
兄だった。
「お兄様」
ノエリアは思わずそう声を上げていた。
立ち上がり、同乗していた護衛達の間を抜けると、馬車の外に飛び出した。
「ノエリアか?」
声を聞きつけたのか、兄は荷馬車の後方に回り込んでいた。ノエリアは躊躇うことなく、兄の胸に飛び込む。
「お兄様……」
「無事でよかった」
優しく髪を撫でてくれる兄の温もりに、張り詰めていた心が解けていく。
「もう大丈夫だ。屋敷に戻ろう」
そう言って、少し離れたところに停まっていた公爵家の馬車を指す。
「いいえ、私だけ帰るわけにはいきません」
兄は、盗賊達から救出したはずの妹が、強い意志を宿した瞳で自分を見ていることに気が付いて、戸惑っている様子だった。
「ノエリア? 何があった?」
「お兄様。私は……」
「とりあえず、向こうの馬車に。話は中で聞こう」
困惑しながらも、兄は妹の必死の訴えを兄は無視したりしなかった。ノエリアの手を取って、公爵家の馬車に向かう。
柔らかな椅子に腰を掛けると、今までの疲労が一気に押し寄せてきた。
横になってしまいたい誘惑に耐えて、ノエリアは向かい合わせに座った兄に、首から下げていた指輪を手渡す。
「これを見てください」
「……これは」
何気なく受け取った兄は、それがイースィ王家とロイナン王家の紋章が刻まれた指輪だと気が付いて、声を上げた。
そんな兄に、ノエリアはこの指輪を託された事情を説明する。
「イースィ王家の紋章が刻まれた指輪を持っていたのは、銀色の髪をした美しい女性でした。彼女は八年前、ロイナン王国で陰謀に巻き込まれて、今まで姿を隠していたのです」
「……カミラ王女殿下が?」
呻くような兄の言葉にしっかりと頷き、ノエリアはもうひとつの指輪を握りしめる。
「私はカミラ王女殿下から、ロイナン王国の前国王の死は事故などではなく、原国王イバンによる暗殺だったのだと聞きました。そして、この紋章の指輪を持っていた人とも会いました」
兄の手が、指輪を持っていたノエリアの手に添えられた。
その手がわずかに震えていることに気が付いて、息を呑む。
「お兄様?」
こんな兄の姿を見るのは、初めてだった。
「まさか。生きていたのか、アルブレヒト」
はっきりと彼の名を口にした兄の言葉は、友人だったと言っていたアルブレヒトの言葉が正しかったことを証明していた。
そこでノエリアは、今までのことをひとつずつ兄に説明していく。
「私はロイナン王国に入ったあと、王都ではなくジャリアという港町に連れていかれました。結婚式までの間、その町に滞在するようにと。王城にはいまだに離縁したはずの方が滞在していて、私の存在は邪魔だったようです。いずれ盗賊の仕業に見せかけて殺すつもりだと、護衛騎士が話していました」
ロイナン国王の妹に対する扱いに、死んだはずの友人が生きていたと聞かされ、茫然としていた兄は、憤りを露わにする。
「ノエリアを、そんなふうに。……なんという男だ」
あの護衛騎士と侍女の笑い声が耳に蘇り、唇を噛みしめる。
彼らは明確に、ノエリアを嘲笑っていた。
「アルは、そこから私を助け出してくれました。彼らは山間にある、昔の貴族の邸宅をアジトにしていたようです。その邸宅で、私はカミラ王女殿下とお会いしました」
「山間に? 彼らは八年前の事件のあと、ずっとそこに身を潜めていたのか」
「ええ。アルはその事件で大怪我をしてしまい、しばらく動けなかったようです。ようやく癒えた頃にはもう、イバンの即位が決定してしまったと言っていました」
「……一度国王になってしまった男を、その座から引きずり落とすのは難しい。国の最高権力者だ。歯向かう者は、罪状を捏造していくらでも片づけられる」
兄はそう言ったあと、ノエリアの前で物騒な言葉を口にしてしまったと気が付いて、気遣うように妹を見た。
ノエリアはそんな兄に微笑みかける。
「お兄様、私は大丈夫です。ロイナン王国に渡って、たくさんのことを見聞きしました。もう以前の世間知らずの私ではありません」
「そう言えるようになるまで、お前の無垢な心がどれだけ傷ついたかと思うと、この結婚を阻止できなかったことが悔やまれる」
「いいえ、私の苦労など、カミラ王女殿下とアルに比べたら些細なものです。お兄様が言っていた通り、国王となったイバンは、アルを助けようとした貴族を次々と取り潰したそうです」
兄はその言葉に顔を顰めながらも、頷いた。
「おそらく、イバンがもっとも警戒していたのは、国王の死から即位が決まるまでの間だ。国王にさえなってしまえば、いくら王太子が生き残っていようと、どうとでもできると思っていたのだろう。もしアルブレヒトを脅威に思っていたのなら、彼らを盗賊などと呼んで情報規制するよりも、一気に殲滅してしまったほうがいい」
それをしなかったのは、自らの優位を確信していたからか。
アルブレヒトを追い詰め、苦しむ様を見て楽しんでいたのだ。
「……卑劣な男だ。だが、アルブレヒトのような男には有効だろうな」
兄の表情が変化した。
「私も、そう思います」
ノエリアも、兄に同意して深く頷く。
イバンは卑劣な男だ。
どんな事情があったとしても、ノエリアは他国から迎え入れた花嫁なのだ。
せめて結婚式までは、表面上だけでも大切にする素振りは見せるものだろう。
しかも、彼が自分から望んだ婚姻だ。
だがイバンは一度もノエリアと対面することもなく、王都にさえ近づけなかった。
彼にとって重要だったのは、ノエリアという王家の血筋に近い者が存在するということ。もしノエリアが誰かと結婚すれば、イバンよりもロイナン王家の血が濃い子どもが生まれてしまう。
それを阻止するために、結婚を申し込んだにすぎない。
イバンにとってノエリアは、その程度の存在だった。
ノエリアの話を聞き、同じ結論に達した兄は、イバンに対する怒りを隠そうともしない。
「そんな男がロイナン国王であることを、許してはならない」
「はい、お兄様。私もそう思います」
ロイナン王家に連なる者として、ここは何としてもイバンを倒さなくてはならない。




