記憶に眠る恋・8
だがノエリアの願いとは裏腹に、戦いは徐々に厳しくなっていたようだ。
ある日の朝。
カミラに誘われて一緒に朝食を食べ、そのあと一緒に刺繍をしいると、ひとりの女性が飛び込んできた。
アルブレヒトもライードも昨晩から不在だったので、ふたりともひどい髪形のまま、自分達で何とかしなくてはならないと話しながら、笑っていたときだった。
「カミラ様!」
飛び込んできたその女性の剣幕に、カミラが顔色を変えて立ち上がる。
「どうしたの?」
「アルブレヒト様達が帰還しましたが、怪我人が多いようで」
「すぐに行くわ。ノエリアはここで待っていて」
「!」
戦っているのだから、誰かが傷つくのはあり得ることだ。
でも、実際にそれを聞いてしまうと動揺して、ノエリアも立ち上がった。
「私も行きます。何か、手伝えることはありますか?」
カミラは迷った様子だったが、それでも一刻を争うと思ったのだろう。
お願いと小さく呟くと、報告に来た女性と一緒に慌ただしく一階に下りていく。
ノエリアも急いで、そのあとに続いた。
怪我の手当はできなくても、カミラが動きやすいように手助けをすることはできる。
ここに来てから、役に立てるようなことは何もしていない。せめて何か、できることがあれば。
だが、現場は想像以上に凄惨なものだった。
周囲に漂う血臭。
男達の呻き声。
一階のホールに足を踏み入れたノエリアは、その惨状を見た途端、動けなくなって立ち尽くした。
「……っ」
血の気が引いて倒れそうになってしまうが、何とか壁に手をついて、深呼吸をする。
(無理を言って手伝いに来たのに、迷惑をかけるなんて。……何かしないと)
必死に自分にそう言い聞かせて前に進もうとするが、足が震えてしまい、もうその場から動けない。
カミラともうひとりの女性は、てきぱきと負傷者の手当をしている。さいわいにも、命に関わるような怪我人はいない様子だ。
それに少し安堵する。
だが戦いが激化しているのは、たしかのようだ。
(私、本当に何もできない。足手まといにしかならないなんて)
無理を言ってついてきたのにと、自分の不甲斐なさに涙が溢れそうになる。でも今は、泣いている場合ではない。震える足に必死に力を込め、歩き出す。
「ノエリア」
そんなとき、ふと背後から声をかけられた。
同時に、手を掴まれる。
驚いて振り返ると、やや険しい顔をしたアルブレヒトがノエリアを見つめている。
「アル」
「顔色が悪い。無理をしてはだめだ。部屋で休んだほうがいい」
そう言って手を引かれたが、ノエリアは首を横に振った。
「無理を言って、連れてきてもらったから。何もしないまま帰るなんてできないわ」
「そんなことを言っている場合ではないだろう」
嫌がるノエリアを、アルブレヒトは有無を言わさずに抱き上げて、そのまま二階に戻ろうとする。
「待って、アル!」
必死に歩いた道のりを、どんどん逆に辿ってしまう。
いくら抵抗してみても、アルブレヒトにとってノエリアの動きなど、何の妨げにもならない様子だ。
「私、今まで何もできなくて。せめてみんなが大変なときに、お手伝いができればと思ったのに」
「あんな目に合えば、こうなってしまっても仕方がない。心の傷は、そう簡単には癒えるものではない。無理はしないことだ」
「え?」
何とか逃れようとしていた動きが、そのひとことで止まる。
ノエリアは、なぜ自分が暴力的なものにここまで恐怖を覚えてしまうのか、その理由を知らない。
だがアルブレヒトは、すべてを知っているようなことを口にした。
「アルは、どうして私がこうなったのか、知っているの?」
「……」
答えはなかった。
「知っているのね」
でも、ノエリアは確信した。
やはり記憶が消えてしまっているだけで、アルブレヒトとは昔、出会っている。
「だったら教えてほしいの。お願い」
さらに詰めると、彼はようやく口を開く。
「自分を守るために記憶を消したのだろう。忘れているのなら、無理に思い出す必要はない」
「でも私は……」
「忘れたままのほうがいい。俺が言えるのは、それだけだ」
どんなに言葉を尽くしても、アルブレヒトがその考えを変えることはなかった。
彼はノエリアを抱き上げたまま彼女の部屋に入ると、寝台の上にそっと座らせた。
「アル……」
縋るような視線で彼を見上げる。
彼がこんなに拒むのは、ノエリアのためだとわかっている。
「近いうちに必ず、セリノからの迎えが来る。だからノエリアは過去のことなどすべて忘れて、これからのことだけ考えていけばいい」
「そんな」
たしかに、あれほどの恐怖を覚えるのだから、つらい記憶なのだろう。でもその記憶の中に、アルブレヒトとの思い出がある。
ノエリアはそう確信していた。
(だって、あなたとは初めて会った気がしないもの。私達には、共通の思い出があるはず)
遠い昔。
何を話して、どんなことをしたのか。
それを覚えていないことが、悔しくて。
両手をきつく握りしめて、俯く。
「……わかったわ」
それでもノエリアは頷くしかなかった。
諦めたくはなかったが、役立たずのノエリアと違って、彼にはやらなければならないことがたくさんある。
これ以上、引き留めてはいけないと思うと、引き下がるしかなかった。
「邪魔をしてごめんなさい」
「そんなことはない。……ああ、そうだ」
アルブレヒトはその場に跪くと、俯くノエリアを慰めるように、手を握る。
「まだ、約束を果たしていなかったな」
「約束?」
「ああ。俺が気に入っている景色を見せると約束した。もう時間はあまり残されていないから、明日の朝にでも行こう」
「いいの?」
「もちろんだ。だから今日はゆっくりと休んだほうがいい」
「……うん」
本当は納得していなかった。
アルブレヒトも、ノエリアがそう思っていることに気が付いているだろう。
だが彼は何も言わずに立ち去ってしまう。
自分のためだとわかっている。
争いを連想させるものを見ただけで、あれほど恐怖が残っているのだ。
でもアルブレヒトとの過去の思い出を、諦めることもできない。
ノエリアはしばらく寝台の上に座ったまま、固く目を閉じていた。




