記憶に眠る愛・5
朝、身支度を整えるとアルブレヒトが部屋を訪れて、ノエリアの髪を丁寧に梳かして綺麗に結んでくれた。
それからふたりで朝食を食べる。
すっかりそれが、あの日からの習慣になっていた。
けれど、ある朝。
身支度を整えてしばらく待ってみても、アルブレヒトが部屋を訪れることはなかった。何かあったのかと不安に思いながら、何とか自分で髪を結んで、部屋の外に出てみる。
すると慌てた様子のカミラの姿を見かけた。
「あの」
何だかとても忙しそうだったが、思わず声を掛けてしまっていた。彼女はすぐに振り向き、ノエリアを見てほっとしたような顔をする。
「ああ、よかった。呼んでもいいか迷っていたの。少しお願いしたいことがあって」
「私ができることなら、喜んで」
役に立てるのが嬉しくてそう答えると、カミラはノエリアを連れて、さらに屋敷の奥に移動する。
「アルが少し体調を崩したみたいなの。だから、傍にいてあげて」
「え、アルが?」
今朝、部屋を訪ねてこなかったのはそんな理由だったのかと、ノエリアは慌てる。
「大丈夫でしょうか……」
「ええ、そんなに心配しなくても大丈夫よ。きっとあなたと再会できて、気が抜けたのね。今日一日ゆっくりと休めば、すぐに回復するわ」
私達が傍にいると、かえって無理をしてしまうだろうから。カミラはそう言って、アルブレヒトの部屋に案内してくれた。
「お願いね」
彼女はそれだけ言い残して、忙しそうに来た道を戻っていく。
男性の部屋に入る恥ずかしさよりも、アルブレヒトの容態が気になって、ノエリアは軽く扉を叩いたあとに、返事を待たずに部屋の中に入る。
途端に、ひやりとした空気が身体を包み込んだ。
いつも暖炉が灯されていたノエリアの部屋に比べると、ここはとても寒い。
それに明かりもないらしく、薄暗かった。
ノエリアはゆっくりと歩いて窓までたどり着くと、朽ちてボロボロになっていたカーテンを、裂いてしまわないようにそっと開く。
朝の光が部屋の中を照らし出す。
アルブレヒトは、狭い寝台の上で眠っていた。
疲れ果てたような様子に、胸が痛む。
こんな山奥で隠れ住むような生活では、体調を崩したりしても薬を買うこともできない。ただこうして身体を休めるしかないのだろう。
この狭い部屋には暖炉も、椅子さえもない。ノエリアは寝台の傍に近付くと、床に膝を付き、そっとアルブレヒトの手を握る。
まだ幼い頃、怖い夢を見たと泣くと、必ず兄がこうして朝まで手を握ってくれた。その温もりに心が落ち着いて、ゆっくり眠ることができたことを思い出す。
(私には、こんなことしかできないけれど……)
少しでも彼が回復するように、穏やかに眠れるようにと、必死に祈りを捧げていた。
「……ノア?」
ふと、幼い頃の愛称で呼ばれ、驚いて顔を上げる。
目を覚ましたらしいアルブレヒトが、握っていたノエリアの手を引き寄せて、頬を寄せた。
「よかった。ノアにもセリノにも、もう二度と会えないかと思っていた……」
触れた頬は、随分と熱い。
熱が出ているのかもしれない。
早く部屋を暖めて、額を冷やして、それから着替えもした方がいい。
そう思っているのに、縋るような手を放すことができなかった。
昼になってカミラが様子を見に来るまで、ずっとそのままアルブレヒトの手を握っていた。
「ごめんなさい。椅子も用意せずに、あなたにこんなところに座らせてしまうなんて」
カミラは何度も謝罪してくれたが、ノエリアは首を横に振る。
「私なら大丈夫です。むしろカミラ様に気を遣わせてしまうなんて」
ふたりで何度も謝り、最後はライードに止められてしまった。
「あの、アルは大丈夫でしょうか?」
様子を見てきたライードにそう尋ねると、彼は優しい顔をして頷いた。
「はい。熱も下がったようですし、明日の朝には回復するでしょう」
「……よかった」
ほっと息を吐く。
ロイナン王家の人間は身体が丈夫ではない人が多く、病死が多いと知っていたので心配していた。
けれど彼の言っていたように、翌朝には回復した様子だった。
安堵しながらも、あのときの彼の言葉が、ノアと呼んでくれた優しい声が頭から離れない。
カミラには、恥ずかしいから付き添っていたことは内緒にしてほしいと頼んだので、アルブレヒトはあの日のことを知らない。
だから、どうして幼少時の愛称で自分を呼んでいたのか、聞く機会を失ってしまった。
けれどまだ、聞く勇気が持てない。
きっとその頃の記憶には、自分が忘れてしまいたいと強く願ったことも含まれている。
その翌々日には、アルブレヒトはいつも通りノエリアの髪を整えてくれた。
この日の朝食は、カミラも一緒だった。
朝食のあとにアルブレヒトはライードと外出し、ノエリアはカミラと話をしながら、彼女を手伝って縫い仕事をしていた。
あのカーテンやシーツなどは、すべてカミラが仕上げたらしい。王女の意外な特技に驚くが、カミラは最初の頃はひどいものだったと、明るく笑う。
「でも、すごいです。こんなに綺麗に……」
「他にすることがなかったからよ。料理もまったくできなかったし、掃除なんてかえって汚すだけだったから。それに、誰だって八年もやったら上手くなると思うわ」
そう言うけれど、ノエリアは指を刺さないようにするのが精一杯だった。カミラの倍以上の時間をかけても、ほとんど進まない。
それでも手伝える仕事があるだけで、心が落ち着く。
カーテンのほつれを苦心しながら直していたノエリアは、ふとカミラが大切そうに針を入れているものが気になって、手を止めた。
ノエリアの視線に気が付いたのか、カミラは顔を上げて微笑んだ。
「これは、お守りよ」
「お守り、ですか?」
「ええ。守護の紋様を縫い込むの。これを身に付けていると、災厄から守ってくれるのよ」
このロイナン王国に伝わる伝統で、カミラは匿ってくれた女性から教わったらしい。
アルブレヒトのためだろうか。
ノエリアがそう思ったのが伝わったようで、カミラはライードのためだと言って笑った。
「彼は今、私の護衛なの。もう誰ひとり、私のために死んでほしくないから」
そう言うカミラの横顔も、深い悲しみに満ちている。だがノエリアが何か言うよりも先に、彼女は笑みを浮かべた。
「ノエリアもアルに作ってみる? 刺繍は難しいかしら? 私もまだ、それほど上手くはできないのよ」
そう言われてノエリアは、大きく頷いた。
「はい。やってみたいです」
少しでも、ほんの少しでも彼を災厄から守ってくれるのならば。
そう思ったノエリアはさっそく、カミラに習って作り始めた。




