記憶に眠る愛・3
何かを言いかけたアルブレヒトは、ふいに我に返ったように言葉を切る。そのまま、視線を窓の外に向けた。
(アル?)
何を言おうとしたのだろう。
気持ちを押し殺しているような横顔を見ていると、胸が痛くなる。
そっと、彼の腕に手を添えた。
「だめよ、アル」
「ノエリア?」
「私が笑っていても、あなたがそんな顔をしていたら意味がないわ」
振り向いたアルブレヒトは、驚いたように目を細めてノエリアを見つめている。
「俺は……」
「もちろんあなたと私では、背負っているものがまったく違う。こんなことを言うのは無責任かもしれない。でも……」
あなたにも笑っていてほしい。
そう告げると、アルブレヒトは穏やかな笑みを浮かべてノエリアの手を握った。
重なる温もりに、胸がどきりとする。
「少し厳しい状況が続いて、余裕がなくなっていたかもしれない。そうだな。そんなときこそ、笑うべきだ」
「ごめんなさい。私……」
ノエリアにとっては、ほんの少しの間のこと。
だがアルブレヒトは、八年も戦っているのだ。厳しい状況で生きている彼に、あまりにも無責任な言葉だったかもしれない。
表情を曇らせて謝罪しようとするノエリアを、アルブレヒトは制止する。
「そうだな。たまには俺も休んで、好きなことをしてみるよ」
「アルの好きなことって?」
「ここから少し離れた場所に、気に入っている景色がある。そこで過ごすのが好きだった」
大切な思い出を振り返っているかのように、優しい顔をしてそう言う彼を、ノエリアは見つめる。
きっとすばらしい景色なのだろう。
「私も見てみたいわ」
「ああ、そうだな。いつか連れて行こう」
あまり気を張り詰めず、たまには好きなことをする。
笑顔でいるように、心がける。
互いにそう約束して、ノエリアは数冊の本を手に、部屋に戻った。
さっそく椅子に座り、持ってきた本を眺める。
今までノエリアが読んでいたような高級な装丁ではないが、それでもしっかりとしているので痛みはあまりない。
(少しだけ、読んでみようかな?)
最初に感じていた怖さは、もうなくなっていた。
それは自分の中に、前とは違う強い決意が宿っているからだ。
どんなに怖くても、逃げたりしない。
アルブレヒトとカミラ、そしてライード達とともに、きっとこの戦いを乗り越えてみせる。
この思いは、本を読んだくらいで薄れたりしないとわかっていた。
最初は少しだけと思っていたのに、ページを捲っていくうちに、いつのまにか熱中していたようだ。
「ノエリア?」
ふと耳元で名前を呼ばれ、慌てて顔を上げる。
いつのまにか傍にはカミラがいて、ノエリアを覗き込んでいた。
「あ、カミラ様……」
驚いて、思わずその名を呼ぶ。
「いくら呼んでも返事がなかったら。勝手に入ってごめんなさいね」
「いえ。私のほうこそ、気が付かずにすみません」
慌てて本を置いて立ち上がる。
少しだけと思っていたのに、カミラが声を掛けるまで、本に熱中していたようだ。
「ふふ、夢中になっていたものね」
にこりと笑ったカミラは、ノエリアが置いた本にちらりと視線を走らせる。
「これ、書斎にあった本かしら?」
「はい。アルが案内をしてくれて」
そう答えると、彼女はますます楽しそうに、くすくすと笑う。
「やっぱり。昨日、何だか書斎のほうが騒がしかったから。今まであの部屋には誰も立ち寄ったことがなかったから、不思議に思っていたの。きっとあなたのために、あの部屋を綺麗にしていたのね」
(アルが、そんなことを?)
机の上に置いた本に、指を走らせる。
彼は、喜ばせたかったと言ってくれた。カミラの言うように、ノエリアのためにしてくれたのだろう。
(それなのに、私は……)
どうしてもっと素直に喜ばなかったのかと、後悔が押し寄せる。
「これもアルでしょう?」
そう言ってカミラは、ノエリアの綺麗に編み込まれた髪に触れる。
「そうです。彼にそんなことをさせるなんて、と思ったのですが」
カミラの髪は、ライードが手入れをしていると聞いたことを思い出す。見ると、彼女の美しい銀髪は今日も光り輝いていた。
「気にしなくてもいいわ。むしろ、あなたの髪に触れることができるなんて、役得ではないかしら」
悪戯っぽくそう言うと、机の上に置かれていた本に触れる。
「昔から、本が好きだったの?」
「はい。よく本に夢中になりすぎて、兄に叱られました」
「そう。こんな山奥では外出もできないから、私もあなたが退屈ではないかと心配していたのよ」
「お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。昔からほとんど外に出たことがありませんから」
でも今度、アルブレヒトに景色の良い場所に連れていってもらうと約束した。何気なくそう言うと、カミラは弾かれたように顔を上げた。
「アルが、本当に?」
「は、はい。あまり思い詰め過ぎないように、ときどき好きなことをしようと、お互いに約束しました」
その剣幕に驚きながらもそう答えると、両手を強く握られた。
顔を上げると、カミラが思い詰めたような目をして、ノエリアを見つめている。
「カミラ様?」
「どんなに言葉を尽くしても、私達には無理だった。でもあなたなら……」
泣き出しそうな声だった。
先ほどまで楽しそうに笑っていた彼女の急激な変化に驚く。だが、痛いくらい握られた手が、彼女の思いの深さを物語っていた。
カミラは何を思っているのだろう。
それを聞かなければならない。
そう思ったノエリアは、自分からも彼女の手を握り返す。
「私にできることがあるなら、何でもします。ですから、どうぞおっしゃってください」
そう告げると、カミラははっとしたように手を離した。それから、心を落ち着かせるように、自分の胸に手を当てている。
「……ごめんなさい。少し、動揺してしまって」
そう言ったあと。彼女はしばらく、話の糸口を探るように目を閉じていた。ノエリアは静かに、カミラの言葉を待つ。
「あの男……。イバンが私達を執拗に追ってきたのは、最初の一年くらいだったわ。前にも言ったかもしれないけれど、有力貴族を味方につけて国王になったあとは、むしろ私達を助けようとした人達を迫害するようになったの」
やがて心の整理がついたのか、カミラは静かに語り出す。
たくさんの人達が、自分達を守るために犠牲になってしまった。
そう言っていたことを思い出して、ノエリアも唇をきつく噛み締める。




