記憶に眠る愛・2
長い髪は動きやすいように、丁寧に編み込まれた。
「ありがとう」
感謝を込めてそう言うと、アルブレヒトの表情が和らいだ。
そっと髪に触れて、ノエリアも微笑む。
「俺でかまわないなら、いつでも。……ああ、そうだった。書斎に案内しようと思っていた」
「書斎?」
この部屋を訪れた理由を、思い出したらしい。ノエリアに付いてくるように言うと、部屋を出ていく。
慌ててそのあとに続いた。
向かったのは、二階の居住区にあるひとつの部屋だった。
扉を開くと、少し埃っぽい空気が流れ込んできた。どうやらあまり使われていない部屋のようだ。
「少し待っていてくれ」
アルブレヒトはまっすぐに窓に向かうと、大きく開いて空気を入れ替える。空気がよくなったところで、促されて部屋に入る。
昔は書斎として使われていた部屋らしい。
両側に天井まである大きな本棚があり、本がびっしりと詰め込まれていた。この邸宅の持ち主は、こんな山奥にこれだけの本を持ち込むほど、好きだったらしい。
「こんなに……」
たくさんの本を目にして、ノエリアの目が輝く。
ガラス戸に収められていたせいで、あまり痛んではいないようだ。歴史書や政治本の本ばかりだと思っていたが、奥のほうには物語の本もある。
「古い本ばかりだが、暇つぶしにはなるだろう」
アルブレヒトはそんなノエリアを見て、表情を和らげる。
どうして彼は、ノエリアが本を好きなことを知っているのだろう。
父も兄も優しくて、ノエリアをとても大切にしてくれた。
けれど公爵家当主であり、その後継者であるふたりは、屋敷にいないことが多かった。
ふたりが忙しいことは、よく知っている。
だから昔から、交わした約束が果たされなかったときは、本に夢中になっていたと言うようにしていた。
そうすれば、父や兄が安心することを知っていたからだ。
王太子の婚約者になってノエリアも多忙になっていったが、幼い頃からこうしてひとりで本を読んで過ごしている時間が多かった。
本は寂しさを紛らわす手段であったが、大切な家族に守られ、幸せに過ごしてきた日々を彷彿させるものだ。
「もう読めないと思っていたのに」
思わず手に取ると、懐かしいような、泣き出したいような気持ちになって、ノエリアはそう呟いていた。
あの頃は怖いものなど何もなく、大切に守られていた。
もう戻れない過去が、どうしようもなく懐かしい。
でも、戻りたいとは思わなかった。
あれからたくさんのことを知り、大切に守られていただけではわからなかった、痛みや切なさを知った。
その経験は、自分を成長させてくれたと思っている。
それに家族と過ごす時間は、どんなに幸せでも、無限には続かない。
この結婚がなかったとしても、いずれあの居心地の良い優しい空間から飛び出さなくてはならない日は来ていた。
だからノエリアはロイナン国王に嫁ぐことが決まったとき、大切にしていた本をすべて片付けた。
もう子どもではいられない。
今度は自分が兄を守るのだという、決意の表れであった。
今はただ、幸せだった少女の頃が懐かしいだけだ。
「どうした?」
本を手にしたまま考え込んでいると、アルブレヒトが心配そうに声をかけてきた。
「……私が本を好きだったこと、兄から聞いたの?」
そう尋ねると、彼は頷いた。
「寝る間も惜しんで本を読んで、よく兄に叱られていたの」
あまりにも本に没頭しすぎて、頻繁に体調を崩してしまっていたことを告げると、アルブレヒトは眉をひそめる。
心配してくれていることは、聞くまでもなくわかった。
彼の優しさは、兄にとてもよく似ている。
「でも結婚が決まったとき、本をすべて処分してしまって。もう子どもではいられない。これからはしっかりとしなくてはと思ったの。だから……」
また昔のように本を読んでしまうと、何もできない弱い自分に戻ってしまいそうで、怖かった。
物語の中で生きるのは、それだけ心地良くて、幸せだったから。
どんなに今は平穏で心穏やかに過ごせていたとしても、ここは安全な公爵家ではない。
いずれ戦わなくてはならないときが来る。
そんなときに、足手まといになってしまわないか。
迷惑をかけてしまうのではないか。
それを心配するあまり、不安が先に立ってしまって、素直に喜べなかった。
「ノエリア。これは私達の戦いだ。君はそれに巻き込まれてしまったに過ぎない」
そんなノエリアに、アルブレヒトは静かな口調で、言い聞かせるように言う。
だがそれを否定するように、強く首を振る。
「でも私も、無関係ではないもの。あのままだったら私は、ロイナン国王に……」
利用され、殺されていたかもしれない。
「それを阻止することができてよかった。それに、ここにいる間は俺が守ると言った。その後は、セリノが必ず守ってくれる。何の心配もいらない」
「……」
ノエリアは、ただ守られていればいいなんて、思っていなかった。
でもアルブレヒトはまるで過保護な兄のように、それを強く望んでいるようだ。
たしかにノエリアが何かしようと思っても、やれることなど限られている。実際に戦っているのは彼らなのだ。
(何かしたいと、戦いたいと主張しても、力のない私では、ただ負担をかけてしまうだけだわ)
ならば自分にできることは、なるべく彼らに心配をかけないようにふるまうことかもしれない。
そう思ったノエリアは、手にした本をそっと抱きしめた。
忙しい父と兄が心配しないように、いつも本に熱中していた頃を思い出す。
(私にできることは、今も昔も、それだけなのね……)
自分の非力さを恨めしく思いながらも、それを微塵も出さず、アルブレヒトに向かって笑みを浮かべる。
「そうね。私は下手に動かない方がいいかもしれない。本も、ありがとう。本当は、何かをしたらいいかわからなくて、少し困っていたの。また本を読めるなんて、とても嬉しいわ」
父や兄なら、こう言えば安心してくれた。
けれどアルブレヒトは、そんなノエリアの笑みを見ると表情を曇らせる。
「アル……?」
「たしかに俺は、君を危険な目に会わせたくないと思っている。安全な場所にいてほしい。だが、そんな顔をさせるつもりはなかった。本も、ただ喜ばせたいだけだった」
予想外の言葉に動揺してしまう。
「そんな顔って、どんな……」
頬に手を当ててみる。
いつだって父と兄は、ノエリアの言葉で安心してくれていたはずだ。
「自分を押し殺し、他の人の気持ちを優先させている顔だ。そんな君の顔を見てしまったら、もう何も言えなくなる」
「えっ……」
ノエリアはただ驚いて、アルブレヒトを見つめる。
父や兄にも一度も気付かれなかったのに、まさか彼がそれを感じ取ってしまうとは思わなかった。
「私の方こそ、ごめんなさい。本が嬉しかったのは本当なの。素直に喜べばよかったのに、どうしても臆病になってしまって。お父様やお兄様なら、こう言えば安心してくれたから……」
隠し通せないなら、素直に心のうちを打ち明けるしかない。
ノエリアは動揺したまま、そう言ってアルブレヒトを見上げた。
「セリノも、君にそんな顔をさせていたのか」
やや呆れたような声に、ふたりの仲の良さを感じて、思わず自然に笑みを浮かべる。
さきほどのような作り笑いではない、本物の笑顔になった。
それを見ていた彼も、表情を和らげる。
「そう、笑っていてくれ。それだけで俺は……」




