記憶に眠る愛・1
ノエリアは、窓の外から聞こえてきた鳥の囀りで目が覚めた。
視線をその声がしたほうに向けると、生い茂った木々の合間から穏やかな朝の光が降り注ぐ。
「ん……」
寝台から身体を起こすと、ゆっくりと手足を伸ばして背伸びをする。
「今日も、良い天気ね」
空を見上げてそう呟く。
この邸宅に来てから、もう五日目。
海辺よりも山間の空気のほうが身体に合っていたらしく、毎朝清々しい気分で目覚めることができていた。
ロイナン国王の手下の護衛騎士や侍女よりも、アルブレヒトやカミラのほうが信用できる。
そのことも影響しているのかもしれない。
この邸宅には今、三十人ほどの人間がいる。
ほとんどは若い男性だが、女性がカミラを入れて五人。老齢の者や身体が弱い者、子どもなどは、別の場所に隠れ住んでいるようだ。
だからここにいるのは、主に最前線で戦っている者達だ。
アルブレヒトはたったこれだけの人数で、ロイナン国王となったイバンと対立している。
過酷な日常だったと思う。
カミラが言うには、数年前はもっと多かったらしい。
どうして減ってしまったのか、それを聞くことはできなかった。
おそらくイバンに捕まり、処刑されてしまった者が多いのだろう。
彼らは皆、二階にあるそれぞれの部屋で暮らしているようだが、ノエリアと接触することはほとんどなかった。
カミラとアル、そしてたまにライードと会話を交わすくらいだ。
たまに他の人と邸宅内で会ったりするが、彼らも会釈をして通り過ぎるだけだ。
彼らを恐ろしいとは思わなかったが、ノエリアも人見知りで、自分から話しかけることはできずにいた。
そろそろ着替えをしようと、寝台を離れる。
シンプルなワンピースは、着替えも簡単なものだ。
動きやすくて、なかなか気に入っていた。だが長い金色の髪をうまく結ぶことができず、いつもここで時間をかけてしまう。
「いっそ切ってしまおうかしら……」
父や兄が聞いたら青ざめてしまいそうなことを、呟いてみる。それでも悪戦苦闘しながら何とかまとめ上げると、扉が叩かれた。
「ノエリア、起きているか?」
「アル? ええ、起きているわ」
咄嗟に部屋に置かれていた古い鏡を見て身支度を整え、そう返事をする。
この五日で、彼とも随分打ち解けた。
兄の友人のようだし、穏やかで優しいアルブレヒトは、ノエリアにまったく警戒心を抱かせない。それに彼はロイナン王国の王太子なので、王家の血を引く兄と自分にとって、縁戚でもある。
強い人だと思う。
いくら世間知らずのノエリアでも、彼の苦悩や重圧は相当なものだとわかる。でもアルブレヒトはそれをまったく表には出さず、いつも穏やかで優しい。
それでも彼は時折、過去を懐かしんでいるような切なげな瞳で、ノエリアを見つめているときがある。
その目を見てしまうと、胸がどきりとして苦しくなるのだ。
(どうしてそんな目で私を見るの?)
兄のように、ノエリアも過去に会ったことがあるのだろうか。
そう思ってみても、昔の記憶はとても曖昧だ。
母が亡くなったことがショックだったらしく、断片的にしか思い出せないのだ。
さらに兄が言うには、恐ろしい事件にも巻き込まれていたようだ。
でもその記憶の中に、きっとアルブレヒトとの思い出があると思うのは、考えすぎなのだろうか。
(もし会ったことがあるなら、アルだってそう言うはずよ。ただお兄様から私のことを色々と聞いていただけなのかもしれないし……)
彼のことばかり考えているせいか、あの日から何度も同じ夢を見る。
見覚えのない美しい庭園には、ノエリアが好きな白薔薇が咲き誇っている。その中に佇む、ひとりの男性。
彼は白薔薇を一輪手に取ると、丁寧に棘を取り除いてから、差し出してくれた。
穏やかな優しい笑顔に、ノエリアもまた、心からの笑顔を向ける。
夢の中のノエリアは、どうしようもないほどの幸福感に満たされていた。
幸せ過ぎて、涙が零れてしまうくらい優しい夢だった。
その男性は、アルブレヒトによく似ていた。
夢のせいだと何度も自分に言い聞かせていても、高鳴る鼓動を静めるのは容易ではなかった。
「随分、苦戦したようだね」
アルブレヒトは、思考に沈んでいるノエリアの姿を見ると、そう言って笑った。
「え?」
慌てて鏡を見直すと、しっかりと結んだはずの金色の髪がほつれている。
「ああ、ごめんなさい。こんな見苦しい姿を……」
慌てて髪を解いて結び直そうとしたが、焦っているせいかなかなかうまくできない。ほどけないリボンのせいで、ますます乱れてしまう。
(アルの前でこんな姿……)
あまりにも恥ずかしくて、どうしたらいいかわからなくなってしまった。
「ノエリア、ここに座って」
アルブレヒトはそんなノエリアのそんな姿を見ると、椅子を鏡の前に移動した。困惑するノエリアに、そこに座るようにと指示をする。
「え、あの……」
戸惑いながらも、促されるまま座る。
するとアルブレヒトは机の上に置かれていた櫛を手に取り、ノエリアの髪を優しく梳かしてくれた。
「アルにそんなことをさせるわけには……」
慌てたノエリアは立ち上がろうとした。今はこんな山奥に潜んでいるが、彼はロイナン王国の王太子なのだ。
「危ないから、動かないように。ノエリアにこんな苦労をさせているのは、俺達の責任だから」
「でも、カミラ様は……」
カミラの銀色の髪は、いつだって美しく光り輝いている。王女であったカミラにできるのに、自分にできないことが情けなくて、ノエリアはますます俯いた。
「ああ、あれはライードがやっているだけだ。カミラにひとりでやらせたら、さっきのノエリアよりもひどいことになっている」
「え?」
驚いて振り向きそうになり、またアルブレヒトに止められた。
「動いたら駄目だよ」
「ごめんなさい。でもまさかライードさんが……」
騎士というよりも傭兵といった風貌の、大柄な男性を思い出して驚く。
ここに来てから聞いたことだが、彼は最初にアルブレヒトとカミラを助けた領主の息子だった。
そのせいでロイナン国王イバンに目をつけられ、領地と身分を没収されながらも尚、ずっとアルブレヒトに仕えていた忠臣である。
そんな彼がカミラの髪を丁寧に梳いているところを想像すると、何だか微笑ましいと思ってしまう。
「彼は器用で何でもできる。ノエリアも、ライードのほうがよかったか?」
「ううん。私はアルがいい」
思わず反射的に答えてしまい、鏡に映っているノエリアの顔が真っ赤になった。
「そうか。そう言ってもらえると嬉しいよ」
だがアルブレヒトのほうは余裕でそんなことを言い、ノエリアの髪を整えてくれた。
触れる手の優しさ。
時折首筋に触れる手の温かさ。
心地良くて、少しの痛みも感じなかった。




