偶然か、必然か
第一章
西暦八五〇年 春の月 アレンド王国周辺フィールド
背に垂れる漆黒のマントを翻し、魔王カイリは逃げていくフィールド調査隊を追った。マントを貫いて生える漆黒の翼を用いれば追いつくことは容易かったが、面倒だった。この行為を何度繰り返したことか。カイリは人間の生気を吸収して生きていた。魔王はそうすることでしか生きられないのだ。必死に逃げる調査隊目掛け、独自の攻撃術式を唱える。
「......エンド・レイン」
途端に頭上から雫が落ちてくる。段々と強度を増していき、調査隊の肌に触れる。雨が当たった皮膚から、煙が上がる。そう、ただの雨ではない。触れたもの全てを溶かす、《終焉の雨》だ。たちまち悲鳴が広がる。しかし、回避する手段はない。次々に倒れていく十数名の調査隊の中で、最も生気が強そうな人間に近寄る。腕が溶け、骨が露わになりそうだ。
「や...やめてくれ......」
要望に応じるつもりはない。こうしなければ、カイリは生きていけないのだから。調査隊の散々に傷ついている肌を気にもせずに、カイリは首を掴んだ。少しずつ力を込め、息途絶える寸前で加減する。そのまま右手の人差し指を、調査隊の心臓部分に突き刺す。男の心臓部分が淡く光り、光の粒子がカイリの指に流れ込む。粒子はカイリの全身に広がっていき、やがて消えた。男はどさりと地面に倒れ込み、意識を失った。
-いつまで続けるのか...
カイリは立ち上がりながら、胸中で自問した。
春の月 アレンド王国
世界の最南に位置するアレンド王国の中心、アレンド城。一階の中央、玉座の間の扉の前で私は立ち止まった。内部から会話が聞こえたからだ。耳を澄ます。
「レージェ様......」
声の主は、私の護衛騎士であるクウマ・ストリンクだ。どうやら、私の母であるレージェ・ド・アルベルク王妃と話しているらしい。クウマは私が幼い頃から護衛をしてくれている。歳は十しか離れておらず、私は今年十七になる。クウマは幼少期からこの城で騎士を勤めている。
「フィールドを調査していた者達ですが......全員、重症です。意識不明の者が一名います...」
クウマはよく通る声で王妃に告げた。レージェは薄茶色の瞳を僅かに曇らせた。
「......また、彼の者の仕業なの...?」
「ええ...おそらく。これで三度目です...」
レージェが言った《彼の者》。誰を指すのか、私もよく知っている。これで三度目なのだ。一般の民には知らせていないが、王家で知らないものはいるまい。私は自分の身長の倍以上もある大きな木製の扉に両手を当て、勢いよく開いた。
「お母様...?」
私が五十メートル程先の段差の上にいるレージェを見つめると、レージェは瞳に慈愛の色を宿らせた。二つ並んだ、玉座の左側に腰かけるレージェに歩み寄る。
「レノン、聞いていたの?」
レージェが優しく問うた。そう、私の名は、レノン・ド・アルベルク。アレンド王国の第一王女である。
「...はい。」
私が答えると、レージェは軽く溜息を吐いた。
「そう...。」
「お母様...。調査隊の人達は、大丈夫なの?これで三度目よ。そろそろ騎士を派遣した方が......」
私の提案にレージェではなく、クウマが反論した。
「レノン様、騎士は派遣できません。」
「どうして?」
クウマは少しの間を置いて答えた。
「......他国の兵士が既に戦闘を試みたようですが、誰一人歯が立たなかったそうです。派遣した兵士の半数以上が、重症を負ったとのこと。」
「クウマの言うとおりよ。レノン、騎士の派遣は危険だわ。新たな犠牲者を産むだけよ。」
しかし、私は納得できなかった。このまま何もしずに時間が解決してくれるのを待つのか。冗談じゃない。いつになるか判らないではないか。
「フィールドの調査は止めさせるわ。これで暫くは犠牲者が出ないはずよ。」
レージェは端的にそう言った。
だが、国内に攻め込んできたら…?
その前に止めなければいけないのではないか。騎士が派遣されないのであれば。
「私が行くわ。」
私が国民を守る。この国の王女なのだから。
「なりません。」
レージェよりも先に、クウマが抗弁した。碧い瞳に強い意思が宿る。
「レノン様は日常稽古でしか剣を振ったことがありません。しかも木剣。レノン様に何かあったらどうするのですか。」
クウマの指定は正しかった。基本剣技を覚えるために、日常稽古で木剣を振ったことしかない。とても勝ち目があるとは思えない。
「......レノン、危険すぎるわ。わたくしも支援できません。」
「でも......!」
「自室に戻りなさい。」
レージェに言われれば、従わざるを得なかった。
「はい......」
来た道を戻り、アレンド城三階にある自室へと向かった。三階には、中央に私の部屋、左にアレンド王国国王、そして私の父であるグレイ・ド・アルベルクとレージェの部屋がある。自室の扉を開け、中に入る。部屋の中央には純白の天蓋付きベッドがある。もう午後十時だ。横たわりたい気持ちを抑えながら、翠のドレスを手早く脱ぐ。今夜は眠気が凄かった。寝巻きであるワンピースに着替えてベッドに潜り込むと、私は瞼を閉じて考えた。
私が戦おうとしているのは、三百年間以上も生きているという魔王だ。しかし、戦う目的は国民を救うためだけではない。
魔王も救いたいのだ。
きっと、何か理由があって調査隊や他国の民を襲っているはずだ。それを知り、共に生きる方法を考えたい。魔王だって、生きているのだから。
-魔王。あなたは誰なの......?
いつしか私は、眠りに落ちていった。
翌日、私はアレンド城四階、武具保管庫に足を踏み入れた。しかし、この部屋には騎士が身につけている長剣、《フォーマルハウト》しかない。貴重な武具は国王が秘密保管庫に隠しているそうだ。しかし、騎士が使っているのだから、耐久度や優先度に問題はないはずだ。私はフォーマルハウトを一つ手に取り、鞘に収めると武具保管庫を後にした。
今日は朝から国王グレイと王妃レージェ、王国騎士団幹部を混じえた《魔王討伐会議》が行われている。つまり、今なら城を抜け出せるのだ。門番には適当な用事を伝えれば良い。私は自室に戻ると、できる限り軽装なドレスに着替えた。鎧を着れば門番に怪しまれてしまう。左腰にフォーマルハウトを装備し、自室の扉を開ける。周囲を見渡し、誰もいないことを確認するや否や、私は部屋を飛び出した。
誰にも見つからずに一階の玉座の間の前、ホールに辿り着いた。城のメイン扉である大扉を開け、外に出る。アレンド城は城壁に囲まれていて、城壁の外側には堀がある。大扉から城門までの百メートル程の距離を小走りで駆け抜ける。ヒールの低い靴を履いてきたが、やはり走るのには適していない。やっとのことで城門をくぐると、城門の左右に立っている門番の一人、ダルシェが声をかけてきた。
「おや。レノン様、外出ですか。」
「ええ。ちょっと用があって......」
そのまま通り過ぎようとしたが、もう一人の門番、サイムに引き止められる。
「フォーマルハウトを持っての外出とは、余程の用なのでしょうね?」
そこで、ようやく私は自分の失態に気づいた。腰にフォーマルハウトを装備してしまっていたのだ。王女が実剣を持っての外出は、いかにも不自然だ。
「そ、そうなのよ。今日は実剣を用いて稽古をしようと思っているの。」
咄嗟の嘘に、ダルシェが口を開く。
「おひとりでですか。それは危険です。私がお供致しましょうか。」
サイムが反論する。
「お供をするなら僕が行きますよ。ダルシェ様は門の警備をお願いします。」
歳の頃まだ二十のサイムが、五十を越えているであろうダルシェにこれほど達者な口をきくのは感心せざるを得ない。しかも、ダルシェは門の警備や国の見回りをする衛士隊の隊長なのだ。ダルシェは僅かに眉を上げた。
「サイムよ、ここは私が承る。門の警備はサイムが担ってくれ。」
「いえ、警備はダルシェ様の方が安心です。僕がレノン様を護衛致します。」
段々と空気が圧迫してきたため、慌てて割って入る。
「護衛は必要ないわ。一人で大丈夫よ。」
ダルシェとサイムは我に返り、言い争いをやめた。
「クウマ閣下は御一緒ではないのですか。」
ダルシェの問いに、サイムが答える。
「ダルシェ様......。本日は朝から魔王討伐会議をしています。クウマ様は王国騎士団副騎士長です。当然、会議に参加しておられましょう。」
衛士隊長であるにも関わらず、部下に指摘されたのがダルシェはショックだったようだ。地面を見て項垂れている。
「クウマに内緒で練習して、驚かせたいの。それに、あなたたちにも披露したいわ。だからお願い。一人で行かせて?」
立派な嘘を見事に並べた私に、ダルシェが先に頷いた。
「そういうことでしたら。呉々もお気をつけください。」
「ありがとう。」
「レノン様、本当に独り身で行かれるのですか?貴方様に何かあったら僕は...!」
納得のいかない様子のサイムに優しく声をかける。
「サイム。危険は犯さないわ。ちょっと稽古をするだけよ。」
「......解りました。お気をつけて。」
「じゃあ、行くわね。」
門番二人に挨拶をすると、私は堀を渡る跳ね橋を下ろすために、誘導術式を唱えた。
「オブジェクト・コンダクション」
唱えながら、右手を上から下へと下ろす。すると、ぎいぃぃという音と共に、跳ね橋が下り、反対側の地面へと道を造った。それを駆け足で渡り、私は王家の者だけが知っている裏門へと向かった。裏門は正門を使わなくてもアレンド王国を出ることができる。正門が北にあるのに対して、裏門は東にある。正門と違って衛士がいないため、さっきのような会話をしなくて良い。走って五分程で裏門に着いた。どこにあるのかは知っていたが、実際に来るのは初めてだ。裏門は人一人分の幅しかなく、しかも扉付きだ。私は深く息を吸い、吐いた。この門をくぐれば、もう戻ることはできない。
魔王を倒し、城に帰るのだ。国民と、魔王を救うために。
-お父様、お母様、ごめんなさい。必ず帰ってくるから、許して...
意を決して、取っ手を掴む。そのまま勢いに乗って扉を開ける。途端に強風が届き、腕で顔を覆う。ゆっくりと手を下ろすと、私は目を見開いた。扉の向こうには、果てしなく広いフィールドが広がっていた。クウマとの稽古でフィールドに足を踏み入れたことはあったが、これほど広大なことは知らなかった。私は、もっと周囲を見る必要がある。この広い世界を、救うために。
-魔王。あなたのことも、救ってみせるわ。
私は広い原野を、一本の長剣を握って走り始めた。
春の月 アレンド王国周辺フィールド
-どうしよう...
勢いに乗ってフィールドを走り抜けていた私だったが、今更ながらに目的地が判らないことに気付いた。魔王の城に行けばいいのだろうか。どこにあるのかは判らないが。そしてもう一つ。私は魔王の容姿も、特徴も何も知らないのだ。これでは魔王を見つけることができない。木陰に寝そべりながら、私は瞼を閉じて考えていた。どうすれば魔王に会えるのだろう。クウマにもっと情報を聞いておくべきだった。しかし、城に戻ることはできない。
「お嬢さん、何か悩み事?」
不意に、頭上から声が降ってきた。慌てて瞼を開けると、漆黒の髪と紅い瞳、背に髪と同じく漆黒の翼がある男が私の顔を覗き込んでいた。体を持ち上げる。男はしゃがみこみ、私の乱れた髪を直した。
「...ありがとう......」
男は微笑み、口を開いた。
「どうしたの?こんなところで。」
男の優しい囁きに、私は意識せずに答えていた。
「魔王の城に行きたいんだけど…どこにあるのか判らなくて...」
私の発言を聞いた男は、一瞬目を見開いた。しかし直ぐに笑みを浮かべた。
「どうして、魔王の城に行きたいの?」
魔王を知っているということは、この男も王家の者なのだろうか。
「魔王を救うためよ。」
途端に、男が明らかに動揺した。男はしばし硬直していたが、やがて言葉を発した。
「魔王を倒さないのか?」
「倒した後で、救う。魔王と話し合って、共に生きる方法を考えたいの。」
男は再び考え込んだが、口角が上がったのが判った。
「俺が案内してやるよ。魔王のところに。」
急に口調が変わったことに驚きながらも、素直に言葉を返す。
「本当に!?」
「ああ。それと、アンタを強くしてやるよ。」
「強く...?」
私が訊き返すと、男は溜息を吐いた。
「魔王を倒したいんだろ?だったら着いてこい。」
そう言い、男は歩き出した。慌てて立ち上がり、私も後を追う。
「あの...!あなた、名は何というの...?」
すると男は立ち止まった。そして、振り返る。ニヤリと笑うと、高らかに名乗った。
「俺の名は、カイリだ。」