きみを忘れない
「どうした?」
指先に目を向けたまま、佐野が少し顔をかたむけた。
「さわっちゃいかんよ。キミのことだ、云うまでもないだろうが」
カートをのぞき込んでいた少女が、首をかしげた。
「どうして、こんなところにあるの?」
「なんのことかな?」
少女が顔をあげて、トレーの上の赤くしなびたゴム片を指さした。
「これ、風船でしょ」
「ああ、それか」
佐野が笑って、手をとめた。
体を起こし、ラバーの手袋をはめた手をまわしながら、言葉をひねりだす。
「バカな使い方がしてあったのさ。空気の代わりに危険な薬が入れてあったんだ。そのとなりで横になってるおにいさんは、そいつを売人……、いや、悪いヤツから買ったんだが、いちどにたくさん吸い込みすぎて、彼の心臓はびっくりして動きをとめてしまったと、まあこういうわけだ」
「寝てるみたい」
「恋人といっしょだったんだが。あっという間の出来事で、あまり苦しまずにすんだようだから。まあ、それほど、悪い死に方ではなかったかもしれないな」
ふうん、とうなって、少女がくるりと白いスカートをひるがえした。
もちあげたゴーグルを額にのせると、手の甲でとんとん腰をたたきながら、佐野がとなりのストレッチャーをのぞく少女の、小さな背中をふり返った。
「そいつは、ギャングの抗争、ようするにケンカの悲しい結末だ。包丁みたいな、でっかいナイフで刺されたんだ。見たら、それはそれは立派な心臓をしていたよ。バカをやらなきゃ、ゆうに八十は生きたろうにな」
少女がうつむいたまま、白いブラウスの襟の中でつぶやいた。
「どうして仲良くできないんだろうね」
「そのとおり。ほんとにまったく、どうしょもない大人たちだよ」
笑った佐野が、頬をゆがめて、一言一言かみしめるように云った。
「どいつもこいつも、どうしょもない大人たちばかりだよ」
そっと息をついた佐野が、少女の浮かない顔に気づいて、慌ててかぶりを振った。
「すまない、変なこと聞かせてしまったな。おじさん、たまに忘れてしまうんだよ、キミがまだ子どもだってことを。キミがあんまりかしこいもんだから」
「そうじゃないの」
「どうした? なにかあったかい?」
少女の視線を追って、佐野が大きくうなずいた。
「ああ、心配ご無用。わたしは切ってないよ」
手袋をはずしてトレーにならべると、机に広げられたハンカチの上、オレンジジュースのコップの横に立てかけられた試験管に手をのばし、佐野がその小さな口に挿された水仙に、そっと指をあてがった。
「わざわざきれいに咲いているのを切るわけない。そんなことするわけないさ。茎が折れて、道端に垂れていたんだ。だから、摘んできた。ほっとけないだろう?」
そうじゃないの、と少女がうつむいて、髪の中でつぶやいた。
「もう会えないかもしれないの」
手をとめ、かがみこむように、佐野がゆっくり首をかしげた。
「どうしたんだい? なにか問題でも」
「もう行かなきゃいけないんだって」
顔にかかる髪を、しきりに払いのけながら、少女が云った。
「いつもいっしょにいてくれてる、やさしいおばさんがね。いつまでもここにはいられないんだよ、って。次の準備をしなくちゃいけないからね、って」
「次の準備って?」
わからない、と少女がほほえみ、肩をすくめた。
「でも、とっても楽しいことみたい。おばさんが、そう云ってた」
「そうか、ならよかった」
佐野が、目じりをぬぐって、大きくうなずいた。
「楽しいことで、よかった。おじさんもそれに賛成だ。おじさんもうれしいよ」
「でももう、おじさんと会えないかもしれない」
「それは、おじさんも寂しいな。しかし」
鼻をこすりながら、佐野が雑然とした室内を見渡した。
「いつまでもこんなところにはいられない、それはわかる。それは正しいよ」
「あれ、おばさんが呼んでるみたい……」
天井をながめていた少女が向きなおって、なにかを云いかけたとき、解剖室のドアがすっとあいて、背は高くはないががっしりした、猪首の男が顔をのぞかせた。
「薬物反応は出たか?」
いや、と佐野が腰をあげ、カートの上の紙に目を走らせた。
「アルコールや、ニコチンすら出てない。こいつはかなりの健康オタクだよ、警部。不良もずいぶん変わったもんだな、われわれの時代とは」
「狂犬といわれた男だ。正面からあっさり刺されたとは、腑に落ちんな」
顎をかいていた納富が、ぱちんと指を鳴らして、佐野を指した。
「なるほど、犯人は身内か」
佐野が、ストレッチャーに手を振り、肩をすくめた。
「防御創がないし、衣服を通さず、直接刃物で刺されてもいる。少なくともそのとき、上半身は裸だったんだ。地べたを転がったんだか、皮膚は擦過傷だらけで、カーゴパンツはうす汚れてもいる。しかし、羽織っていたアロハには血痕しかついてない。身内かどうかはわからんが、犯人はもしかすると、女かもしれないな。じゃあなんで、云わなかったんだ?」
「乳くろうとしたとこを、女にやられたなんて知れてみろ、狂犬の名が地に落ちる」
納富が、うなりながら、盛んに顎をなでまわした。
「しかしそうなりゃ、ずいぶん話がちがってくるぞ。先生、ちょいとつきあってくれないか、鑑識が出払っちまっててね。ざっとでいいんだ、専門外もいいとこだろうが、見てもらいたい」
「検視官になにをさせようっていうんだ? まあ、持ってくりゃ、あえて拒みはしないがね」
「でかいんだよ、ヤツが病院まで運転していったキャデラックだ」
佐野がのけぞり、目を見開いた。
「自分で運転していったのか、あれほどの出血で?」
「なんせ、狂犬だからな。それに病院行っただけじゃない。具合からみて、どうやらキャデラックは現場でもありそうだ。なるほどすべて納得、いざおっぱじめようってところをひと突きか」
にやりと笑って手招きして、廊下へ戻りかけた納富が、机の上のジュースと花に気づいて、あたりをきょろきょろと見まわした。
「お客さんだったのかい?」
「ああ、いや。まあ」
頭をかく佐野を、じっと見ていた納富が、やにわに大きくうなずいた。
「そうかそうか、もうそんな季節か。すまなかったな、じゃましちまって」
「今夜限りだ。ばかばかしいと思うだろうが聞いてくれよ、警部」
花に向かって、手をあわせる納富に、佐野が笑いかけた。
「もう次の場所へ行かなくちゃならないんだそうだ。かわいいあの子が今日はわざわざ、わたしにお別れを云いに来てくれたんだよ」
「云ったか? ちゃんと挨拶したか?」
「えっ? いや」
「ちゃんと云っとけ」
納富が、あけた目をぎょろりとさせて、つくった拳で佐野の胸を押した。
「そういうことはちゃんとしとけ。先に行ってる」
広い背中が消えると、解剖室がまたしんと静まり返った。
「心結愛ちゃん、聞こえるかい? まだここにいるのかい? すまなかったね、おっぱじめようだなんだと、子どもの前でする話じゃなかったな。ええと」
がらんとした室内を見まわし、佐野がどこへともなく声をかけた。
「おじさんは今でも、昨日のことのように思いだすんだよ、キミが運ばれてきた日のことを。がりがりに痩せて、体じゅう傷だらけで。わたしは神を呪ったよ。なんの罪もない子が、どうしてこんなひどい目にあわされなくちゃならないのか。正直に云おう。おじさんは犯人を殺してやりたいと、キミを苦しめた、キミのお父さんとお母さんを殺してやりたいと何度も思ったよ、何度も何度も。ああ、すまない、こんな話はやめよう」
ゆるゆる首を振り、手のひらで顔をぬぐって、佐野が天井を見あげた。
「キミは、ほんとうに賢い子だった。もしかしたら殺されるかもしれない。そんな状況でも周囲への心づかいを忘れない、思慮深く我慢強い子でもあった。よほどつらかったんだろう、そんなキミでもまわりの大人たちに助けを求めたことがあった。けれど、まわりの大人たちは誰もキミに応えなかった、学校も児童相談所も、キミを見殺しにした。親といっしょになって、キミを殺した。キミの絶望を考えると、わたしの胸は張り裂けそうになる。腹立たしく思う。悔しく思う。大人として、ひとりの人間としてもうしわけなく思う。でも、よかったよ、次は楽しいところなんだろう? おばさんに云っといてくれ、うそついたら承知しないぞって」
笑うと、つかんだ上着を肩に引っ掛け、佐野がぐるりと部屋を見まわした。
「今度こそは、ちゃんとキミを愛してくれる親に恵まれますように。今度こそは、ちゃんとキミを思ってくれる教師に出会えますように。今度こそは、ちゃんとキミを守ってくれる社会に生まれますように。キミの次の人生に、少しでも多くの幸せがありますように。おじさんは心の、心の底から祈ってるよ。では、かわいいわかわいいわたしのお嬢さん、またどこかで会おう」
佐野がそう云って、頬の涙をぬぐったとき。
水仙の花が、うなずくように、かすかに揺れた。