蜃気楼
会社を出ると予報外れの大雨。
薄いビジネスバッグを頭に乗せ、駐車場の車まで走る。酷い雨だ。
こんな天気でも、仕事終わりのコーヒーは欠かせない。けれど小銭を何回入れても、自動販売機の反抗期に阻まれ別の場所へ。
いつもと同じ缶をすぐ買って、水滴が付いたまま車に乗り込む。髪から雫が垂れて缶の縁に当たり、スーツを更に濡らした。
......缶を開ける時車の横に何か気配を感じる。
一口含んだまま向けた視線の先、ワイパーで晴れた視界に映りこんだ何か。街から少しズレたこの暗い道の雨の日なんて、すぐそこの先も濁らす。
スモールライトのお陰で、水滴の合間からなんとか目視出来た。
傘もささず下を向いて、ずぶ濡れのまま歩く女性の姿を。
その女性は長い髪を放し飼いにして、手にヒールを持って裸足で歩く。赤いネオンサインの看板の下、白いシャツは着崩れスカートは不自由に揺れていた。
こんな時代に珍しいと思いながら、二口目を飲み込んだ。
そんな人間に誰かは手を差し伸べる。
──そう。誰だって、誰か、の世界。
この道の先は大通りの交差点。
中身が半分以下になった缶コーヒーを置いて、ハンドルを握りアクセルを踏む。先程まで歩いていた女性に追い付き始めた。
不意にその女性が一瞬で視界から消える。
すぐ右斜め前で車の進路に向かって、勢いよく転んだんだ。
突然の事でここで轢く訳にはいかない。それだけの考えでハンドルを左にきる。
雨の日に急ハンドルなんて、だいたい想像はつく訳で見事に車はスピン。それでもなんとかシャッターの閉まった廃れた店に突っ込む事はなく、寸前で止まった。
日頃のストレスと鬱憤を晴らすように、感情的に扉を開けて女性に駆け寄る。
「おい!! 危ねぇだろ?!」
二方向に散らばったヒールと、中身が飛び出した女物の鞄。当の本人は顔を上げずにずっとうつ伏せで、ピクリとも動かない。
この社会に似合わない手を女性の首元に忍ばせ、力任せに襟元を掴もうとする。だが襟は元の場所より横にずれ、シャツは引き裂かれていた。
「おいふざけん──」
濡れて張り付いた髪の間から見えたのは、淀んだ瞳に植えついた恐怖。怯えた表情は崩れた化粧に作られ本心は何も見えない。
「......ごめんなさい」
ただ呟くだけの謝罪をして、力無くまた潰れていく。引っ張ったせいでシャツは更にはだけ、上は下着がもう半分見えていた。
「......おい」
声をかけると肩を震わせて見上げられる。その時に合ったのはか弱い視線。
「お願いが......あって......」
「......」
「......抱いて欲しいんです......」
服を離した行き場を無くした手を冷たい両手で掴まれる。その手を振り払って早くお風呂に浸かりたい自分の心と、下心満載で偽善者の心。
誰か、が自分になった時。
人は結論利益の為、自分の為に動こうとする。
今ここでこの女性を助けたら抱ける事はほぼ決まっている。男にとって女を抱ける悦びは、何にも変え難い独特な物。
......この冷たい手を引いた俺は、社会的クズの人間と変わらない。
路肩に放置された自分の車に女性を乗せ、家へと走らせた。一言も言葉は交わさず、雨が降り注ぐ音が車内には響く。
家に着いた時には、大雨は雷も伴う程になっていた。汚れた荷物と服は乱雑に端に寄せる。
目の前の女性は上下共に下着姿になった。
自分より少し低い身長で、転んだ代償に傷ついた両膝。スタイルは最高と言っても過言ではなく、出る所は程よく出てて引く所は引き締まっていた。
だが疑問点が一つ。
誰もあの姿を見たら、誰かに犯された後だろうと思うだろう。それなのに身体を抱き寄せた時、雨と女の匂いだけで、汚された形跡も男の匂いもしなかった。
......
「なぁ......聞いていいか?」
「......なんですか?」
渡したタオルは拭き取った水と汚れた土に少しの血を含んで、役割を果たし終え投げ捨てられる。
「......何があったのか」
「聞かなくても良くないですか? 抱かれたい私と、それを承諾した貴方。それ以下でもそれ以上でも......」
「確かにそうだし、俺も偽善でそのつもりだったが気が変わった」
「......」
「服貸してやるから」
ベッドから起き上がって部屋を出ようとした。
「待ってっ......」
半分開いた扉から出た空気と、入り込んだ外の空気。非圧が空気感まで変えてくれる訳もなくて、振り向いた先で痛々しい足の裏の傷が物語る。
「話すから......さ......」
友達に誘われたクラブで無理やりお持ち帰りされて、襲われそうになって逃げ出した。汚されかけた身体で自暴自棄になり彼処を歩いていた。いっその事穢れてしまえば自分を保てる。
──と思った末路がこれだったのだ。
愛も知らずに、愛を抱き合うなんて悲しい。
「......帰りは」
「帰りたく......ない」
「俺明日も仕事なんだけど」
「朝には...帰る」
「はぁ......」
ゆっくり溜め息を吐き出して、絆創膏と消毒を救急箱から取り出した。
「足出して」
「これぐらい大丈夫」
「早く」
不器用に処置をして、水を弾く奴で傷を覆う。
「お湯溜まったら風呂な」
「別にいいのに」
「風邪ひかれて寝込まれても困んだよ」
パーカーを渡し薄い毛布を掛けさせ、お湯が溜まるまでに家事を終わらせる。
「お湯溜まったんだけど」
「ねぇ」
「ん?」
「先に抱きしめて欲しい」
そう言って伸ばされた腕を悩んだ末掴んだ。その瞬間に引っ張られる。
「暖かい」
「風呂はいった方暖まるんだけど?」
「もう少しこのままがいい......」
まだ開けきれない瞼に、隠された恐怖心が見え隠れする。いつかお互いが心を開いたとしても、その瞳を開けきる事は出来ない。
今のままじゃ尚更。踏み込んだアクセルみたいにもう後には引き返せない。
そんな旅路に巻き込まれたこの温もりが告げる。
「愛になった時迎えに来る」
と。
*
日光がカーテンの閉まってない窓から、入り込んで顔に直撃する。
......朝......身体痛てぇ。
どうやらあのまま寝てしまったらしい。
振り返った目の前、綺麗な顔がそこにあった。化粧はタオルに拭き取られ、乾いた髪で顔が露になっている。
助けた理由も失くした一つのピースで、そっと顔に手を添えてみた。
「んっ......」
額に触れた時に感じた異常な熱さは、独り歩きした意識を現実に戻すのに充分で。
冷えた水を張った浴槽はもう無意味。
「おは......よ」
「おはよ」
「ん......頭痛い......」
「そのまま寝たからな......熱測れ」
体温計が鳴いて、表示した数値は三十八度。
「......どーすんだよ」
「帰るよ......迷惑......でしょ?」
「その体調で動けんのかよ」
「正直......しんどい」
顔を赤くして微笑む顔に、愛しさと素直な面倒くさい感情が入り乱れる。
「......仕事休めねぇし今家に送ってく」
「......嫌」
「は?」
「帰りたくない」
「......ここに居んの?」
「......だめ?」
ここまで来ると最後。昨日手を引いた自分を恨むだけ。暖かい服を着せて、氷枕でベッドに寝かせる。
「帰ってくるまで大人しくしてろよ」
仕事に行こうと様子を見に行った時。
「......行ってらっしゃい」
不意の出来事。
「移ったらどーすんだよ」
虚ろな目で笑いながら手を振るから、それ以上何も出来なくなって。
名前も知らない女を家に置いて仕事に向かった。
今日の晴れ予報は大当たり。成り行きの先に指をさして、ピンなんか立てれない。更にはこの浮かんだモノたちが枯れるまでの期限付き。
まだ唇に朝の温もりが覆っている。
遠くに打ち上がった花火は音だけ聞こえて、静かに家の扉を開けた。
「おかえりなさい!」
......なんで起きてんだよ。
光は曲がらないで届く方が綺麗に見えるらしい。
「......ただいま」




