【千紫万紅(せんしばんこう)】
いつ見ても花はいいですね。
なにも語らず、無言のままに朽ちていく。無口な点だけをとらえれば、わたしのようだと言ってもいいでしょう。華が無いという根本的な違いを別にすればですが。
いったい華の無い花が何の役に立つものか。
墓地の花立に刺されたまま枯れて変色し、炎天下に乾き切り、腐った水の匂いに包まれた塵と化した花こそがわたしなのです。
花はいいです。
素敵だという意味と、うらやましいという意味をともに含んで、本当に花はいい。草が化けると書いて花となるけれど、人は化けても花にはなれない。
ビジネスマンから学生、お酒を飲みまた飲まれた人たち、待ち合わせの片割れ、恋人あるいは恋人未満の二人連れ、雑多な人たちの往きかう駅の片隅にある小さな花屋。それこそがわたしの働く店であり、首にされないかぎり、このさきずっと働き続けることでしょう。
店主は悪い人ではないものの、もともと花に興味のない人です。なぜ、そのような方が花屋をやっているのか、話せば長くもなりません。亡くなられた奥さまが経営されていた花屋を夫が引き継いだというだけのこと。
そんなわけで、店主はあまり花に興味がなく、さらに、わたしにとって幸いなことに経営にもさして興味がないのです。くわしくお聞きしたことはありませんが、それなりの資産家で、すでに一線を退き、ただ奥さまが大切にしていた花屋をつづけられればそれで良いとか。下世話な言い方をすれば、金と時間をもてあました暇つぶしのような花屋なのです。
日がな一日、ひのあたる窓ぎわで新聞をひろげてうつらうつらするのが我らが店主のお仕事であります。そんな花屋ですから、奥さまが店におられた頃とは大違いで、ときどきうっかり迷い込んできたお客さまの相手をするほかは、ひたすらふわふわと時間がながれてゆきます。
あまり接客に自信のないわたしには心地よく、このまま花立ての水にとけていっても構わない、日々是好日、そんな気分でした。
もちろん、客商売ですから、うっかり者のお客さまから何事か問われれば答えもし、雑談に応じることもあります。
ただ、わたしはどうも人の気持ちが読めないところがあるくせに、ついつい変にかまって失敗することが多く、いまは亡き奥さまからも、あまり踏み込んではいけないと(わたしのために)言われることしばしばで御座いました。
こちらに勤め始めた頃には、そんな苦手も、がんばれば、いつか克服できると思いもし、わたしなりに人を思い、花を思い、がんばってみたものです。
しかし、がんばればがんばるほどお客さまの機嫌を損ね、よかれと為したことにクレームをうけるなど、やる気がカラカラと空回り。
ですから、いまはもうお客さまの詮索はしない、余計な声はかけない、何もしなければ問題も起きない、そう割り切って淡々と仕事をしている次第です。
ガタゴト、ガタゴト、列車の揺れにまどろむ小さな花屋、年老いた店主が亡くなり、ふるびた店が無くなるまで、ここでこうして時間を切り売りしながら過ごしてゆく。
しおれた花がゴミ箱に捨てられるのを待つように、しずしずと運ばれてゆく我が人生よ。御予算、御要望に応じて、つくりあげた花束のように舞台にあがることはない。
ほんの数歩で壁にぶつかりそうなほど小さな店ですけれど、千紫万紅、色とりどりの花々とその香りがまざりあって、ときに葬儀のように、ときに祝言のように。
ときに誕生日、ときに命日、ときに出会い、ときに別れ、ときに病院、ときに食卓、ときに告白、ときに残り香のようで、わたし自身でなくとも、ほんの少しだけ誰かの人生に花束が顔をだしてくれる。そのことがわたしの喜びであり、わずかな誇りでもあるのでした。
さして商売熱心ともいえない店ですが、なかには物好きな方もおられます。
いわゆる常連客と呼ぶべき方々です。
残念ながら、奥さまが亡くなってからその数は減る一方で、逆に新たに常連客となられた方は御座いませんでした。
ところが、です。
最近になって、あらたな常連客が増えました。以前から、時折、寄られてはいたように思うのですが、はっきりとはわかりません。
いつのころからか、その方は、毎週金曜日に花を買ってゆかれるようになったのです。
言葉すくなに、ブーケをひとつ。
いくらくらいでと御予算をいわれるほか、どんな花がよいとか、どんな機会につかうのか、特になにもいわれませず。
わたしより少し年上の男性で、仕事帰りなのか、いつもスーツ姿です。うつむき加減の顔からは、うれしいのか悲しいのか、よくわかりません。特に御要望がなければ、これとこれとこのあたりでどうでしょうと提案させていただくと、ではそれで、と応じられます。
そんなことも、一度、二度であれば、記憶にとどまることはなく、よどみの泡沫のように消えてしまったことでしょう。
けれど、それが毎週となると……。
ウズウズと良くない癖があたまをもたげて参ります。はて、どなたへの贈り物であろうか、それとも、見舞いの品で御座いましょうか。もしかして、お墓まいり、あるいは普段使いか。余計なことと思いながら、気になって仕方がありません。その用途に応じて選ぶべき花も変わるのですがと。
いえ、正直に申しあげまして、職業意識が1割、無益な詮索なり無用な好奇心が9割といったところではありました。
そして、ある日、その方に、御自宅に飾られるのですか、それともどなたかに贈られるのですか、と、つい聞いてしまったのです。
それと言うのも、普段、わずかなやりとりしかしないその方が、めずらしく、あの花がいいと要望を口にされたからでした。
えらばれた花は、コーンフラワーです。
キク科の花で、和名をヤグルマギグといいます。巨大な青いタンポポといった装いで、なかなか存在感のある花ですから、目を惹かれたのも無理のない話でしょう。
わたしは、その子が選ばれたこと、と言いますか、いつもどの花でもかまわないといった雰囲気のその方がその子を選んでくださったことに嬉しくなってしまい、ほんのすこし興奮気味に、すてきな花ですよね、御自宅に飾られるのですか、それともどなたかに贈られるのですか、と聞いてしまいました。
すると、その方は、うつむき加減の顔をわずかに上げて、その……と言って困ったような顔をするだけで、なにとも答えず。わたしは、ハッとして、すみません、差し出がましいことを、と頭をさげて精算をすませたのでした。
そして、それっきり。
その日を境に、次の金曜日も、その次の金曜日も、さらにその次の次の金曜日も、ぱったりと訪店が途絶え、その方の姿をみることは無くなってしまいました。
やはりあれがいけなかったかと、無遠慮な問いかけを悔いたものです。
悶々とするうちに、またある日のこと、店外にその方をお見かけし、ああ、来てくれたとホッとしたのも束の間、くるりと背をむけて行ってしまう。ものを考えるよりも早く、体が動いていました。
走りながら、それこそ余計なことだと思いながら、追いついたその方の背中をかるく叩き、あの、すいません、と声をかけ、余計な質問をしたことを謝り、またお店に来てくれるように頼んだのです。相手の驚いた様子をみながら、ああ、またやってしまった、自分の言葉などと関係なく、例えば御家族が退院されて花が不要になったとか、御自身が花に飽きてしまったとか、そういうことかもしれないと思い、すみません、失礼しましたと、今度は、わたしがくるりと背をむけたのです。
足早に店へ逃げこもうとするわたしでしたが、これまた今度は、逆にその方が走って追いかけてきまして。驚きはしましたが、息を切らしながら、すいません、待ってくださいと声をかけられて立ち止まりました。
店の入口で立ち話です。
その方は、御自分の名前を告げ、実は、と話されたのは、花束を渡したい人がいるけれど毎回渡せず、自分の勇気の無さがイヤになって、花屋通いをやめてしまったとか。
わたしの不躾な問いかけのせいではないとわかって安心したものです。そこで、わたしは、『希望』、『前進』といった花言葉をもつガーベラを勧めました。
どの色がいいか、どの色がすてきかと聞かれるので、色とりどりのガーベラは、どの色の花も美しく、まさに千紫万紅、よく映える花束となるでしょうと答えました。
精算をすませ、今度こそ、わたせるといいですねと添えてブーケを手渡しましたが、その方は、いっこうに立ち去ろうとしないのです。
そのとき、奥の部屋から出てきた我らが店主さま、通り過ぎざまに、その方の肩を、軽くポンと叩かれました。
すると、その方は、うつむき加減の顔をあげて、色とりどりのガーベラの束を、わたしに渡してきたのです。
愚かにも、返品ですか? としか返事のできないわたしにむかって首を振りながら、もらってくださいと言われました。
あ、はい。と、これまた間の抜けた返事しかできないわたしです。続けて、また買いに来てもいいですかと問われ、やはり、あ、はい、としか言えないのがわたしでした。
すこし間をおいて、もちろんです、と付け加えたのが精一杯。いやはや、人間、気の利いたセリフなど、そうそう言えるものでも御座いません。蓼食う虫も好き好き、物好きな方もおられるものです。