【ながれつくもの〈後編〉】
さて、日は沈み、日は昇り、いつもと変わらない朝を迎えた。さわやかで明るく良い天気である。ただ、あたしは納豆をかきまわしながら少し後悔していた。うっかり取材なんかに応じてしまったが、どんな記事にされるかわかったものじゃないし、目に線を入れたところで、この狭い島の住民がみれば誰かなんてすぐにわかる。よし、写真NGでお願いしよう。
と、それなりに覚悟もして語る気満々で二人と合流したあたしだったが……。
「まだ食べるんですか」
溜息とともに、ジト目で山本を見つめた。半分、睨んだと言ってもいい。山本さんじゃなく、山本で十分だ。この男は。
まったく取材など始まらないのである。
頼まれたのは美味しい海鮮丼が食べられる地元の隠れた名店を教えてくれとのこと。取材をするんじゃないのかと聞くと、ごはんつぶを飛ばしながら、これも取材ッスという。
「けひひ、まあまあ、そう畏まらず。いきなりマイクをむけて、はいどうぞ、なんてこたぁ、僕はしませんよ。こうやって一緒にごはんを食べて仲良くなって、それからッス」
「かしこまっちゃいませんがね。山本さん、ぜんぜん記者さんって感じじゃないし」
最大限の嫌味を込めていうが、
「そうでしょう、そうでしょう。僕は市井に溶けこむ民間記者ですからね。けひひ」
と笑い、うまい、うまいと繰り返すのだった。いやはや、嫌味というものは、互いの呼吸があってこそだと痛感する。
やがて丼を食べ終えて箸をおいたと思うと、さて、次は海鮮焼きッス、と追加注文に走るのだった。あきれて窓の外を眺めていると、がたがたと木枠が揺れていた。風が吹き始めているのだ。と、静かに海鮮丼を食べていた島袋先生が箸を置いた。
「よくない風だね」
行くよ、と短く言って立ちあがった。まだ焼きもの食べてないッス、と不満たらたらの山本に向かって、悪い感じで、にっと笑う。
「あとにしな。最低最悪通俗愚劣な雑誌の取材のチャンスだよ。もしかしたらね」
高台から海手をみると、海中の社があるあたりに人が集まっているのがわかった。あそこだね、と島袋先生にいわれるまま向かう。
途中、自転車で散歩中、もとい警ら中の幼馴染と行き合った。止めた自転車のハンドルに腕をあずけて不思議そうにいう。
「あれ、おまえ向こうの浜にいただろ。ばっちり磯着姿でさ」
「は? なに言ってんの」
「なにって、観光海女をやるんじゃないのか。町長と仲悪いと思ってたから意外だな」
「まって、まって、なんの話よ。あんたは知ってるでしょ。あたしはあの事故以来、海に入れなくなったって」
「だよな。でも、もう十年だぜ。克服したのかと思ってさ。おかしいな。たしかにおまえだったけど。テレビや情報誌とかも取材にきて、結構な人が集まってたぞ」
どういうこと? 首をひねるあたしの後ろから、こいつはネタ取りのチャンスッスね、と山本が走りだしていた。続いて、どすんどすんと巨体をゆらして、意外と機敏に島袋先生が走っていく。首だけ回して、はやく来な!とあたしに言う。わけがわからないまま、あたしも走りだした。流れてくる潮風は、いつにもまして、錆びたような鉄くささがあった。
海へ近付くにつれて、がやがやと騒がしさが耳につく。がはは、と機嫌よく笑う町長を、その取り巻きと記者やらカメラマンやらが囲んでいた。静かな社の浜が踏みにじられていく。人垣をわけて町長に詰め寄った。
「なんなのこの騒ぎ。やめてよ」
「なんや、やめろて」
「ここは社の浜なんだ。騒がしくするような場所じゃない。特にお盆どきはそう」
ちゃぽん、水から何かがあがる音がして、かちゃり、貝殻の音がした。大きなアワビを投げるようにしていたのは、磯着姿の……。
「……お盆どきは、漁もしちゃ、ダメ……なん……だけど」
「ちゃんと漁協に断りは入れてあるわ。テレビの取材やぞ。邪魔なんぞしてみろ、損害賠償請求したるでな。って、ありゃ? なんでおまえ、こっちにおるんだ。双子やったっけ?」
「ちがう。一人っ子だもの……」
「なら、あれは誰なんや?」
ちゃぽん、水から何かがあがる音がして、かちゃり、貝殻の音がした。今度は大きなサザエだ。かちゃり、かちゃりと続けざまに投げるのは磯着姿の若い女。荒れた黒髪を乱暴にくくって。あたしが思い描いていた、ばあちゃんの跡を継いだ海女のあたし?
ちゃぽん、水から女があがる音がして、ばたばた、生き物の暴れる音がした。大きな車海老を何匹も放り投げたんだ。
町長に向かっていたカメラや記者の視線がそれらの獲物に向かう。
あたしそっくりの海女は、黙々と潜り続け、次々と貝や海老や魚をとってくる。ちょっと、あなた、と声をかけても反応はなく、こちらに顔を向けようともしない。
熟練の海女でもなしえないほどの技であり、しなやかな身ごなしに誰もが魅了された。一歩、一歩、自然に足が前へ出る。
やがて、かちゃり、かちゃり、ばたばたと繰り返されていた音が、ぽとり、ぼとり、ぼとんと響くようになり、潮の香りが厭な香りに変わっていった。
女が放り投げた魚は腐っていた。
べちゃりと落ちる。次には海鳥の死骸だ。目を背けたくなる有り様であるのに、見ないでいることができない。猫の死骸、犬の死骸、さらにこれは人の……?
人の死骸の一部ではないか。そう思える肉の塊をまえに、女の後ろ姿を見つめた。ゆっくりと振り返った女の顔は、あたしだった。ただ、両の眼は黒々とした穴のようで、そこに何も映してはいない。
人々はしかし、逃げ出すでもなく、叫ぶでもなく、ふらふらと海へむかうのだった。あたしもまた、いけない、行ってはいけないと思いながら勝手に足が波を踏んでいくのを止められない。ばあちゃんから聞いたトモカズキのことを思いだす。海女が遭遇する海の魔物だ。こんな真っ昼間に、陸の上にいる者たちのまえに現れるなんて。そもそも、そんなものいるわけがない、そう思うあたしの手を誰かが掴む。山本か、島袋先生か、いや、この小さな手には覚えがある。ずっと昔、つめたい海の底で……。
……ちゃん!
名前を呼ばれて、はっと気付くと、ベビーカステラの少年があたしの手を掴んで必死に引っ張ってくれていた。夏祭も終わったというのに、昨夜と同じ浴衣を着て、顔には鼻から上を覆う御面をつけている。懐かしいヒーローもの。あたしが子どものころに流行っていた古いシリーズで、逆にレアな代物……。
そこまで思い返し、ヒーローもののせいだけじゃなく妙な懐かしさを感じていた。と、少年がそっと手を離すけれど、あたしの海へ向かう足が止まっていた。
しかし、他の人々は相変わらず、ふらふらと海へ引き寄せられていく。少年が浜辺を走り、海と陸の境に立つ。儚い堤防のように、垣根のように、向かってくる人々を止めようするが、子どもの体格では何ほどのこともなく、ドンとぶつかられ、その場に倒れこんだ。
ヒーローの仮面が外れる。
あげてきた顔をみて、思わず声がもれた。それは、見知らぬどころではなく、十年前に溺れ死んだ幼馴染みの甲斐くんだ。
そのとき、すべてを思いだした。
十年前、面白半分に潜りに行ったお盆の海。一緒にいって溺れ死んだうちの一人が甲斐くんだった。あたしは助けられた前後の覚えがなく、原因は離岸流だという学者先生の説明を信じるしかなかった。けれど、本当は、化物に海へ引きずり込まれたのだ。
それを甲斐くんが助けてくれた。
奇妙なほどに鮮明な記憶がよみがえり、海の底から伸びる老若男女さまざまな手が、あたしをつかんで沖合いへ、海の底へ底へと連れていこうとする。その間に割って入って、そう、あたしの身代わりに、甲斐くんが連れていかれてしまったんだ。助けられたことさえ覚えていなかった。いまのいままで、すべてを忘れていたけれど、思いだした。潜ることができなくなったのも、島にいてはいけないような後ろめたさを感じていたのも、このせい。
「甲斐くんなんだね」
あたしの問いかけに、黙ってうなずく。しかし、生きてたの? との問いかけには、ふるふると首を振って悲しそうにいう。
「お盆だけ、祭祀の時だけ戻ってこれる」
「うそ! そこに居るじゃない」
思わず伸ばした手が、彼の手をすり抜けてしまう。その体が透けていき、存在が薄れていく。消えていく甲斐くんがいう。
「みんなを助けてあげて」
「みんなを?」
甲斐くんの存在を掻き消すように、波の音が響き、海面に沸き立つ波が無数の手となって伸び、浜にいた人々にむかった。
ごうごうと音を立てて手が伸びる。幼な子から、老若男女、さまざまな人たちを思わせる無数の手が人々を海へ引きずりこもうとしていた。あたしの元へも伸びてきたけれど、それは、ぱきんと弾かれるように離れていった。
甲斐くんがあたしの腰を指差す。そこに吊るしてあるのは例の磯ノミだ。日差しを受けて、鈍く光っている。
「それはお婆さんの磯ノミだよ。最後に潜ったときに取り落としたんだ。いや、取り落としたから海女をやめたのかもしれないね。
きみに渡せて良かった。それを持っていれば海の魔物に襲われることはない。でも、できるなら、みんなを助けてあげてほしい」
「ど、どうやって?」
異様なことが起きてすぐの沈黙は終わり、周囲には喧騒と悲鳴とが巻き起こっていた。海へ引きずり込まれて、溺れさせられてしまうのだろう。十年前のように。
自分を抱きしめるように身を縮めるあたしの耳に、甲斐くんのやわらかな声が聞こえた。
社のなかに巣食うトモカズキを剥がして。
そう伝えると、その姿は消えてしまい、もう呼びかけに返事もない。
「だめ、だめだよ、甲斐くん。あたしはもう潜れない。怖いんだ。あの時、あの時、海の奥深くに飲み込まれるように沈んでから……」
磯ノミを握ってへたりこんだところへ、どすんどすんと巨体の揺れる音がした。
「しっかりしな」
あたしの両肩をつかんで、すとんと立ちあがらせてくれたのは島袋先生だ。
「インチキ霊能者にも五分の魂。祭祀の真似事くらいはできるよ。すこしのあいだなら、わたしが抑えてやろう」
数珠だか水晶だかわからないものを握って経文らしきものを唱える。ぶんぶんと振りまわすが、一向に効果があるようにはみえない。
海の手につかまれ、引きずられていく山本に向かって、かぁ! と気合の声をあげるが、これまた効き目がない。
「先生、止まらないッス!」
怖がっているのだか、面白がっているのだかよくわからないテンションで山本が叫ぶ。
すると、何を思ったか、先生はおもむろに、どすんどすんと走りより、腕を山本の腹に回すと、ふん! っと引き剥がすようにした。明らかに腕力のように思えたが、霊力も乗っていたのだろう。……きっと、そうに違いない。
山本を肩にかつぎあげて戻ってきた島袋先生が大真面目な顔でいう。
「山本を供え物にする」
「え、僕ッスか。ウソでしょ?」
との抗議は無視して、いいかい、とあたしに向かっていう。
「こんな物で抑えられるのは、ほんのわずかな時間だ」
「こ、こんな物、ひどいッス」
「海中の社にある化物の本体を引き剥がせばいいんだろう。やりな!」
力なく首を振るあたしをみる島袋先生の目は、どこかばあちゃんの目に似ていた。
「さあ、行くよ。覚悟を決めな」
山本! と、先生が叫ぶ。あたしじゃないんかい! と思いながら二人の方をみると、先生が数珠らしきものを振り、山本を海へ差し出すようにしていた。すると、無理無理、無理ッス、覚悟なんてないッス! と泣き喚く山本にむかって、浜中の妖しの手が伸びてきた。人々を襲っていた無数の手がすべて山本へ向かっていったのである。
「ひい、やめて、先生! 後生ッス!」
「ちょいと黙ってな。こちとらインチキ霊能者だからね、集中してなきゃすぐにも術は破られちまう。いいじゃないか、取材だよ取材。最低最悪通俗愚劣な雑誌社から依頼を受けてオマンマを食っとるわけやから、ちゃんと取材させてやらないといかんだろ?」
「ちょ、根に持ってるッスよね? もうやめます、記者辞めるッス。だから、助けて!」
との悲痛な祈りにあわせて、というわけでもないが、あたしも、助けて! と祈っていた。ばあちゃんに。
すると、甲斐くんの小さな手があたしの手を握り、ばあちゃんが、あんたならできる、と言ってくれているように思えた。
あたしはジーパンとTシャツを脱ぎ捨てて、十年ぶりの海へむかった。足下を洗う波が懐かしい、頬をなでる潮風が懐かしい、肌を灼く日差しが懐かしい。ずしりとした磯ノミの感触が懐かしい。海中の社がある場所はいまでも覚えている。もう一度、ばあちゃんに祈り、甲斐くんを思って、あたしは海の懐へ入りこんだ。
とぷん、素足で潜るにはコツがいる。
海のなかで目を開けるには勇気がいる。
耳抜きをするのは昔も苦手だった。
いつからあったのかわからない古びた海中の社に張り付くと、その扉を開く。そこには、巨大な牡蠣が鎮座するように納まっていた。がりがりと外しにかかる。久々の潜水に息が苦しく、なかなかうまく取れない。
浮上しようと海面を見あげると、磯着姿の何かが恐ろしい速さで向かってきていた。あたしの姿をしていた化物だ。とても浮上しているひまはない。息苦しさと戦いながら、もう一度、磯ノミを振るう。
化物の手があたしに触れたその瞬間、歳経た大牡蠣は、やっと外れ、それとともに磯着姿の何かは消え失せた。
なんとか海面に顔を出すと、町長を含めて何人もが海に腰まで浸かって呆然としていた。それを島袋先生と、危うく供物になりかけた山本とが浜へ引きあげる。
集まっていた人々は、正気を取り戻すと、三々五々、散っていった。あとには、あたしと先生と山本、それに町長だけが残り、とってきた大牡蠣を囲んでいた。さて、
「どうしましょうか」
と口を切った。Tシャツだけを着て体を乾かしながら、化物の本体であるらしいこの大牡蠣をどうしたものかと思っていたのだ。
山本、と島袋先生がいう。
「食べな」
「ウソでしょ?」
「焼きものを食べ損ねてくやしがってたろ。しのごの言わずに、食え」
「本気ッスか」
「記事の締めくくりにいいじゃないか。海と水着とホラーとグルメな」
「わかったッス。僕も記者の端くれ、好奇心には勝てないッス」
でも、さすがに生は無理ッス、焼いてみるッス、と本気で焼いて食べる山本であった。うげ、名状し難い悲惨な味ッス、吐き気がして手足が痺れて来たッス、などと言っている。
あの人たちは、あほなのではなかろうか。そう思いながら海をみていると、幽かに、甲斐くんの姿が感じられた。もうはっきりとは見えない。ただ、その様子は満足そうで、
これで僕もいける。さよなら。
との小さなつぶやきが聞こえた。もしかしたら、あたしの無意識の罪悪感、後ろめたさが彼を引き留めていたのかもしれない。
「さよなら」
あたしもまた口に出して別れを告げた。これからはまた海が好きになるかもしれない。潜ることもできるかもしれない。
ばあちゃんの磯ノミを取りだして、海に透かすようにする。そのまま波打ち際で足を洗わせていると、町長が近づいてきた。
「はぁ、まいったのぉ。まさかこんなことになるとはなぁ」
「これに懲りて、もう、あまりミーハーなことはやめるんですね」
「そうだな、ちょっと反省。ところで……」
と、じーっとあたしの素足を見てくる。
「なに見てるんですか。セクハラです」
「観光用はともかく、海女をやるんやろ」
「そう、ね。やってもいいかも」
「とりあえず、海女グラビアでもどないや?」
「やりません! ぜんぜん懲りてないじゃないですか。いっそのこと、その鉄面皮を磯ノミで剥いであげましょうか」
「冗談やがな。やめてや」
本気で腰の引けた様子の町長である。波の音に笑い声が混じったような気がした。甲斐くんか、あるいは、ばあちゃんも。
すこしずつ気温が下がり、日の光がかげっていく。その合間に、変わらず潮風が肌を洗う。ベタつくようなこの風が、あたしの風だ。