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【ながれつくもの〈前編〉】


 東京のビルは巨大なコップのようにみえる。


 いつからだろうか。空をみても星を見ず、川をみても魚を見ず、人をみても人を見ず。空には星の輪っかを作る工場はなく、海には溶けた流しびなが藻屑となってけがれを溜めこみ、ばあちゃんが採ってくる牡蠣かきも生では食べられない。目的を失った舵輪が沖合いに沈んでいる。


 海に潜ることは好きだった。


 一度も海女あまになれと言われたことはなかったけれど、なりたくないわけじゃなかった。でも、楽しみで潜るのとはわけが違う。身心を酷使する厳しい仕事だ。だから、ばあちゃんは海女になれとは言わなかった。その気持ちもわかっていたから、あたしは島を捨てて街へ出た。そのあげく薄汚れた野良猫のようになって帰ってきたんだ。ばあちゃんは何も言わなかった。それが、そのこと自体が、嬉しく、悲しく、寂しい。そう思うのは、あたしがけがれているからだ。


 ばあちゃんは、あたしの帰りを待つようにして死んだ。がらんとした家は、二人で暮らすには狭く、一人で暮らすには広い。


 しばらくの猶予期間モラトリアムをどう過ごせばいいかもわからず、二階の窓から海を眺め、タバコを吹かす。あたしの人生も、煙となり、灰となって落ちていく。


 生まれ育った島だというのに、そこはあたしの故郷ではないみたいで、サマセット・モームの言葉が浮かんでくる。きっと生まれる場所を間違えたんだ。


 生まれた土地にいながら異邦人なのだと。


 あたしの安らぎはどこに行けば手に入る? ここはタヒチではない。あたしには絵もなければ、燃やすべき情熱もない。歌舞伎町に捨てられた吸い殻みたいなものだ。


 気付くと、夕闇が降り、部屋の中も外も薄暗くなっていた。昼間の暑さが嘘のように涼しい風が吹き、たくさんの人が涼みにでている。昔でいう暮れ六つ、黄昏時たそがれどき、あるいは大禍時おおまがときだ。

 昼と夜、光と闇、現世うつしよ常世とこよが混ざりあう不吉な時間とされるけれど、あたしは好きだ。昼間のせわしない時間が溶け、ゆったりとした時間が流れ始めるのだから。窓から通りを眺めているだけでも、そこにいる人たちと何かを共有しているような気がしてくる。たとえ、そんなことは、まぼろしに過ぎないとしても。


 どん、どん、どん、と太鼓の音がした。


 どこか懐かしいような笛の音も聞こえ、あたしは今日が夏祭りのある日だと思いだした。山手にある神社があかるく提灯にいろどられ、いくつもの屋台がならんでいる。ぼちぼちと神社へむかう親子連れの姿が目立つ。

 一方、海手の方は暗くひっそりとしていた。むかしはもう少しおごそかで、海中のやしろへ捧げ物をし、その年の豊漁と無事を祈る祭祀が先にあったけれど、もうすたれてしまった。ばあちゃんが生きているときは、ばあちゃんが一人で執りおこなっていたらしい。どんな風だったかはおぼろげで、やり方も聞いていないし、最後の海女とともに失われた。ばあちゃんが死んで、祭りも死んだ。残ったのは祭りの皮だけだ。


 がらがらと外へ出て、潮風にあたりながら人の流れと逆向きに歩く。海へ。


 海はすべてのもののながれつくところ。


 死者たちですらそうだ。海へ帰る。まるで遠い異国のヴァルプルギスの夜のように、いやハロウィンだったか、生者に紛れた死者が海へ帰るように、あたしは海へ向かっていた。

 もちろん、自殺しようというわけじゃない。ただ、もしかして今夜であれば、ばあちゃんが海にいるような気がしたんだ。


 だが、そんな寂しくも満たされた時間は、脳天気で俗っ気の強い声に遮られた。


「よう、……ちゃんじゃねぇか。どうしたんだい。会場は逆方向だぞ」


 がはは、と笑う土建屋の親父のようなオッサンが、この町のおさ、つまり町長様だ。


「いいんですよ。こっちで」


 との返事を聞いているのかどうか。あ、そうそう、あの話、考えてくれたかと尋ねてくる。もう何度も断ったのに、しつこい奴だ。こいつはあたしに、観光の目玉として、海女あまのコスプレをしてくれという。


「やらないって言いましたよね」


「まあそういうな。なにもばあさんみたいに、本当の海女をしてくれってわけやない。観光用の見せ物でええんや。な、ええやろ。ときどき予約が入ったときだけ演じてくれたら十分さ。なんなら、浅めの取りやすいとこへ牡蠣かきやらあわびやら沈めといて、ひょいと拾ってきたらええ」


海女あまの拾いはそういうのと違う」


 あたしの苛つきに気付きもしないで、町長は、ほんなもん、都会もんに違いがわかるわけがねぇ。最後の海女あまの孫いうのは本当やし。そや、沈めとくのも養殖もんでええんちゃうか。一回、海へ浸けたら天然もんやで。がはは、と笑うのを遮っていう。


祭祀さいしは?」


「さいし? ああ、祭祀さいしか。妻子かと思たわ。なんや、……ちゃん、あれをしに海へ行くんか。やめとけ、やめとけ、あんなもん、誰もよりつかねぇよ。ここ何年かは、ばあさん一人だったじゃねぇか。……ちゃんだっていなかったろ?」


 そのとおりだった。自分のなかで悔いている点を無遠慮にえぐられて腹が立ったあたしは、返事もせず、町長を押しやるようにして行き違った。さすがにそこに込められた悪意を感じとったのか、ちっ、と舌打ちして、


 祭祀なんぞ、役にも立たねぇわ。


と背中に投げてくる。だから、立ち止まって振り返ると、目を逸らさずに睨みつけてやったんだ。町長は怯みながらも悪態をつくことは忘れない。祭祀をしたって死んだじゃねぇか。


 くるりと背を向けて足早に歩く。


 胸が苦しくて息ができない。角を曲がって海がみえたら、ようやく息ができるようになった。くそっ、バカやろうめ!


 あいつは、十年前、大勢が溺れた事故のことをいっているんだ。学者は突発的な離岸流が原因だといっていたが、あたしを含めて何人もの子どもが溺れ、驚いて助けに入った大人も溺れた。あたしの両親も。


 夏祭が終わってすぐのことだった。それがある前も、あった後も、ばあちゃんは変わらず祭祀を続けていた。あたしが祭祀に行かなくなったのは、そんなばあちゃんへの当て付けもあったのかもしれない。いや、あったんだろう。だから、あいつの暴言が、自分が言ったことのように胸に刺さる。


 ばあちゃん、ごめんな。


 つぶやいて、タバコに火をつけた。ちらと明るい山上に目をやり、次に暗い海へと目を向けた。ちりちりと紙の焼ける匂いがする。電子タバコなんて嫌いだ。すっと煙を吐きだしながら思う。電子の尖兵どもめ、これ以上あたしの生活に入ってくるな。


 だいぶ人通りが減り、歩きタバコで進む。


 すると、おい、こら、と、もうあまり聞くことのない言葉で呼び止められた。


「歩きタバコはやめろ。補導すんぞ」


 と偉そうな口を聞く警察官だ。というか、警察官になった幼馴染おさななじみだった。


「もう大人だっつの。だいたい補導されてたのはあんただろ。よく警察官になれたよな」


「ふん、言ってろ。その警察の方々が、この俺の素質を見抜いて採用試験を受けるように誘ってくれたのさ」


「うん、野良犬をウロウロさせるより、首輪つけて飼っといた方がいいもんね」


「んだと、この野郎。おまえこそ、相変わらず子どもっぽい顔しやがって」


「ん、まあね。まだ子どもかもなぁ」


 さっきの町長とのやりとりを思い出し、柄にもなく作り笑いを浮かべていた。そんな様子をみて、ぽりぽりとほおを掻きながらいう。


「んだよ、元気ねぇな。でも、まあ、元気だせよってのも無責任か。そうだ、こんど街まで行こうぜ。車を買ったのよ」


「ありがと。でも、いいや。まだ……」


「そうか」


「ごめん」


「あやまんなよ。そうだ、ほらこれ。ベビーカステラ、好きだったろ」


 署への差し入れがあってさ、と、いい匂いのする小さめの紙袋を渡された。


 夏祭の会場警備に行くというやつと別れて、のどが乾くじゃねぇか、と文句を垂れながら、もぐもぐと海へむかう。


 懐かしい味がする。


 暗い海に人気ひとけはなく、一方、仰ぎみた祭会場は華やかであかるく、喧騒がここまで届いてきそうだった。


 ばあちゃんがやっていた祭祀を思いだしながら、色とりどりの供物の代わりにベビーカステラをひとつぶ供えて祈る。豊漁と無事を?


 なにを祈ったらいいのかさえわからない。


 ダメだなぁ、あたしは。そうつぶやいて、供えたベビーカステラを口に放りこんだ。すこし湿って潮臭いそれは決して美味くない。


 立ちあがって家へ戻ろうと思った。そのとき、ふと気配を感じて首をまわすと、小学生か中学生くらいの男の子が立っていた。あたしの顔をみて、ぽかんとしている。


「こんばんは」


 と声をかけてみると、あたふたとした様子で、こ、こんばんは、と返ってきた。見知らぬ少年で、浴衣を着て、顔には鼻から上を覆う御面をつけている。懐かしいヒーローもの。あたしが子どものころに流行っていた古いシリーズで、逆にレアな代物だ。


「こんなところでどうしたの? 祭会場は山手の神社の方だよ」


「わかってます。でも、行けないんです」


「ふぅん、だれかとケンカでもした? それとも、お小遣いがなくなっちゃったか」


 からかうような物言いが気に障ったのか、何も答えてくれない。目を向けると、また、ぽかんとあたしの顔を眺めていた。なんなんだ、いったい、と思いながら最終兵器を取りだし、少年の顔の前で振ってやる。


「じゃーん、ベビーカステラだよ。食べる?」


「え、ぼく、そんな……」


「さっきからじっとあたしの顔をみてたでしょ。知り合い? じゃないよね。じつは、これが欲しいんじゃないの?」


「違います。違いますけど……」


 でも、ひとつください。そういって伸ばした手のひらに、ひとつと言わず、5、6個の丸いベビーカステラを入れてやった。


 見知らぬ少年と二人、夜の海を眺めながらベビーカステラをもぐもぐ。なんだか不思議な気分だ。どこの子なんだろう。なんで祭会場に行けないなんて言うんだろう。


「ねぇ……」


 と声をかけようとして、少年の姿がないことに気付いた。ぽとりとベビーカステラが地面に落ちる。少年が手に持っていたはずのものが、初めから誰もいなかったかのように。


 代わりに軽薄な感じの声が聞こえた。


「いやぁ、海中のやしろって、ここッスかね。あ、そこの人、地元の人かな。毎年、ここで祭祀をやってるって聞いたんスけど」


「ここですよ。でも、去年が最後です」


 と応じながら闖入者の様子をみる。薄汚れたジャケットにラフなスラックス、擦り切れたスニーカーを履いていて、いわゆるビジネスマンではなく、営業マンでもなさそうだ。胡散くさいなとの気持ちが顔に出たのか、男性は名刺を取り出し、雑誌記者の山本と名乗った。


「そっかぁ、なくなっちまったんスね。ただの夏祭を取材しても仕方ねぇし、どうすっかな。あ、そうだ。海中のやしろって浅いところにあるんスか? 見れる?」


「いまは引き潮なんで、わりと浅いところになってますけど……」


 どうせ暗くて見えないし、危ないからやめた方がいい、と続けようとしたのに、山本は、こっちッスか、こっちッスか、と靴のままジャブジャブと海へ入っていく。そこへ、


「やめよ! 馬鹿者が!」


と年配の女性の怒声が響いた。びくりと身を震わせて、さーせん、さーせん、と繰り返しながら山本が戻ってくる。


「いやぁ、そんな怒んなくてもいいじゃないッスか、先生。ね?」


 と振られても困る。山本がいうには、担当雑誌は、現代のカストリ雑誌で、エログロオカルトなんでもござれなのだとか。そして、さきほど怒声をあげた年配の女性は、いわゆる霊能者なのだとも。


「いやぁ、先生はね、この界隈では有名な方でね、なんというか掃き溜めのツル、いや、掃き溜めのクマかな。なはは」


 と笑ったところを先生にギロリと睨まれて黙りこんだ。はたして掃き溜めのクマが侮辱的かどうかは別として、妙にガタイのいい御婦人で、歳は四十代後半といったところだろうか。山本から視線を移して、あたしのことを遠慮なく見つめる。妙な圧のある視線にドギマギさせられるが、ふっと目を細めると笑いかけてきた。あ、たしかにクマちゃんみたい。


「こいつの連れでね。先生なんてもんじゃないが、島袋というよ。悪かったね。うちの山本バカが迷惑をかけて」


「いえ、そんな。ただ、取材ってなんだったんですか」


「低俗の極みよ。あんた、もしかしたら世代の人かもしれないが、むかし、この島で大勢の方がなくなる水難事故があったそうだね。ほら、よくあるだろ、全国最恐の心霊スポットめぐり!とかってな」


「ああ、それで」


 そうそう、それで島の祭祀とかも取材させてもらえりゃなぁって思ったわけッス。と山本が口を挟むが、島袋先生に睨まれて黙りこむ。


「最低最悪通俗愚劣、他人の不幸を面白おかしく書き立てて。ろくでもないね」


「いやぁ、そう言いますがね。先生、先生だって、そんな最低最悪通俗愚劣な雑誌社から依頼を受けてオマンマを食っとるわけやないッスか。同類ですぜ。けひひ」


「わかっとるわ。おなじ穴のムジナ、目くそ鼻くそ、五十歩百歩。それでもわたしは曲げとらんぞ。自分自身をね」


 曲げていない、自分自身を……。


 島袋先生の言葉が妙に頭に残った。そのせいだろうか、できるだけ思い出さないようにしている水の記憶がよみがえった。海に入ってはいけないといわれるお盆前後、そんなときほど良い獲物がとれるからと反抗的な気分で潜りにいっていた。何人かの仲の良い悪ガキ同士で、人目につかない浜を使って。海に育った者の端くれとして、すこし迷信的な怖さを抱かないでもなかったけれど、そんなもの馬鹿げていると笑い飛ばしてやりたい気持ちもあった。そのわりに、磯ノミに刻まれた魔除けを頼りにしていたところもあっただろうか。


 ちゃぷちゃぷと足下に寄せる波が何かを洗っている。くりかえし、くりかえし、ちゃぷちゃぷ、ちゃぷちゃぷ。いつからあったのか年季の入った磯ノミが落ちていた。もう長いこと水に沈んでいたらしく、あつく藻に覆われていたけれど、拾いあげてみると、しっくりと手に馴染み、その柄には魔除けの印があった。


「磯ノミだね」


 確認するように島袋先生がいう。じっと射抜くような目で、あたしの手中のそれを見つめていたかと思うと、ふっと表情を緩めた。


「もらっておきな。悪くない」


「はぁ……」


 海女をするつもりなんてないんですけど、と思いながらも、磯着をまとったばあちゃんの姿、それをまぶしくおかから眺めていた幼いころの自分をみるようで懐かしく、小振りな磯ノミを持ち帰ることにした。島袋先生の悪くないというのは物としてではなく、縁起としてという意味だとはこの時はわからなかった。


 また取材させてくれるッスか、との軽薄な頼みを引き受けたのは磯ノミと島袋先生の存在ゆえだったのかもしれない。


 翌日、山本さんと島袋先生と同席で地元住民として取材を受けることになった。まだ自分が当事者の一人だったことは言っていない。


 いつも、ここにいてはいけないような罪悪感、後ろめたさを抱えてきた。大人になって島を出たのも、いくらかは、あの事故に起因するのかもしれなかった。取材をうけて語ることで、気持ちの整理をつけられるだろうか。そろそろ、そうしてもいい頃合いだ。


 床について、眠りに落ちかけたとき、やっと少年はどこへ行ったのだろうと思った。祭会場へ行けていたなら良いけれど。


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