下下問題
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
一本のボトムスに、生涯がかかっている。
いやいや、マジですよ。僕なんか初デートの時に、使い古したジーパンをはいていきましてね。振られました、その場で。
初ですよ? 初彼女、初デートでですよ? 会って一分、インスタント・フェアウェルですよ? ひどいでしょう、初めてだったのに!
――へ? 彼女だって初めての経験を汚されたのかもしれない?
ほお、へえ、ふううん。
ままま、一理ありますがね。仮にそうだとしたら、お互いの初めてを棺に入れて、火葬しちゃったわけですか。ますます悲惨さが増すんですけど……。
とまあ、ボトムスっていうのはやべえものなんです。僕みたいに彼女が相手ならまだしも、もっと厄介な手合いに遭遇しちゃうケースもあるとか。僕のおじさんの話になるんですけど、聞いてみません?
今をさかのぼること、数十年前。おじさんは家族と一緒に、当時できたばかりのファミレスへ行ったんです。近かったから、全員歩きだったようですね。
ファミレスといったら、ハンバーグがなくては始まりません。その時も和風ハンバーグや目玉焼きハンバーグの違いこそあれど、家族みんなでハンバーグをいただいたそうですね。
ところが、細かく切ったハンバーグのうちのひとかけが、フォークからポロリと取れて、おじさんの半ズボンに不時着しました。反射的にぱっと拾って食べましたが、着地した部分にはお肉のカスが混じる、小さな水たまりがじんわりと。
まずいことに、場所が股間と来ています。しかも隣に座る母親が、すかさず濡れたおしぼりを当てたせいで、水たまりは大海へと変貌。まるっきりおもらし状態です。
子供ながらに、おじさんはみっともなさを感じました。かといって、「これはおもらしじゃない」と吹聴するのは、かえって逆効果だと両親に止められます。
犯罪と一緒で、やっていないと声高にいう奴ほど、周りの人は疑惑の目で見がち。平然としていろと、アドバイスを受けたそうですね。
おじさんたちが住んでいた家は、当時、新幹線の高架近くにあったそうです。まだ騒音問題が騒がれる前で、多少揺れたりうるさかったりしても、がまんして寝るのが当たり前だったとか。
位置的に、ファミレスへ行くにも、学校へ通うにも、どこかしら高架下をくぐる必要があります。この際は、家族全員がようやく横一列に並べる程度の、小さなトンネルが選ばれたそうですね。暗いところが苦手なおじさんは、行きでもそうしたように、ひとりだけ突っ走って向こう側へ出ようとしました。
でも、トンネルへ身体がすっぽり入ったとたん、気温がぐっと下がりました。服をいっぺんに取り去ったかのようで、とりわけあの濡らした部分がいっそう冷えます。
思わず、ちょっと足を止めちゃいます。ぽんと片手でズボン越しに股を叩きますが、おしっこが出そうな気配はありません。「気のせいかな」と、疾走を再開。トンネルの出口で振り返り、家族を急かします。
トンネルを出るや、寒気はウソのように引っ込みました。たまたま冷たい空気に当てられてんだろうと、おじさんはたいして問題視しなかったそうです。
ところが翌日。学校へ通う直前、おじさんのズボンはまたしても濡れます。みそ汁の残りを飲もうとお椀を傾けたとたん、口の端からぽたりと。
位置もまた、昨日のハンバーグと同じ、股の間です。わずかに混じる溶けかけの味噌が、垂れたものの正体をものがたります。たちまち母親によって、再び海が形成されました。
日も暮れた、昨日のファミレス帰りとは違います。同じ学校へ向かう生徒たちの視線をかいくぐり、ズボンが乾くまで持ちこたえねばならないのです。
バレたくない、突っ込まれたくない。その一心で、おっとりがたなならぬ、おっとりランドセルでおじさんは家を飛び出します。まだ児童もまばらなうちに、学校の自分の席へ座ってしまおうという魂胆でした。
通学路に指定されているのは、車も通る大通り。件の高架もまた大きなガードに支えられ、夜でひと気がない時だと、怪物が開いた口のようにさえ見えるポイントです。おじさんにとって怖いものには違いなく、いつにも増した走りで潜り抜けようとします。
ひゅおん、とガード下に潜ったおじさんの身体を、冷たい風が差しました。
昨晩と同じ感覚です。肌寒さに加え、ズボンの湿っていた場所がキンと痛みます。先のものより数段強く、それが収まったかと思うと、どくんどくんと音を立てながら、今度は暖かくなってくるんです。誓って、おもらしなどしていないのに。
一瞬だけ、足を緩めかけたおじさんですが、すぐさま加速しなおします。今は誰にもバレないのが大事。こんなところで立ち止まってはいられません。幸い、ちらほらと見かけた早登校組はこちらを見とがめず、校門前の先生も軽く挨拶を交わして終わり。
そのまま午前中いっぱいを過ごし、ズボンが乾くのを見ておじさんはひと安心したそうです。
しかし、事態は止みません。
その日の給食も、おじさんは牛乳をこぼしてしまい、対応をせまられます。目立たせたくないばかりに、ポケットティッシュで簡単に拭きとっただけなのが、運の尽き。昼休みが終わる頃には目立たなくなっていましたが、牛乳臭さを何人かに突っ込まれ、顔を赤くする羽目に。
そして帰り道も、あのガード下で寒い思いを味わいます。今はさほど湿っていないにもかかわらず、やはり股間こそが最も冷えを感じる部位でした。
それからいくら気をつけても、おじさんは多くの食事でズボンを濡らしてしまいます。不思議とそれは、これからガード下をくぐらねばいけない用がある時だけ。そして、「待ってました」とばかりに、寒気が襲ってきます。
自然、おじさんはくぐる場所を考えました。通学路を外れたとしても、一番距離の短い場所を。そしてあのファミレス帰りに使ったトンネルに、白羽の矢が立ったのです。
ちょっとだけの辛抱だから。そう言い聞かせて、3年の月日がたちました。その間で、何度も同じことを味わい、かといって恥ずかしく誰にも相談できず、諦めかけていたおじさん。
それがある時を境に、おじさんは物をこぼすことも、トンネルの中で冷たい思いをすることもなくなりました。その日は、おじさんが使うトンネルに、こんなうわさが広まった時です。
「あのトンネル、人食いトンネルだ。ときどき、入った人が出てこなくなるんだよ」
言い出しっぺのソースは、彼の歳が離れた兄からだったそうです。
少し前の飲み会の帰り、あのトンネルの前で別れた同僚が、今日まで無断欠勤を繰り返しているとか。
家は留守のまま。実家を初めとしたあらゆる連絡先にかけても、手掛かりなし。最後に見送ったのが、あのトンネルをくぐっていくところだったそうで。ゆえにトンネルに呑み込まれたと、思われているとか。
気味が悪いと思えども、昨日も件のトンネルを使ったおじさんにとっては、信ずるに足りない。何か事件に巻き込まれたんじゃ、と思いつつ、これまでのくせでついトンネルへ足を向けます。
トンネルが見えてくると、ちょうど近所に住む低学年の男の子が、中へ入っていきます。ランドセルはなく、彼らの学年の方が早帰りでした。これから遊びにいくところでしょう。
わざわざ声をかけることもないと、おじさんは後を追ってトンネルへ。ここは車がめったに使わないためか、今も昔も照明の類はありません。
対面に見える光だけが、ただひとつの道しるべです。それをのぞいては、よほどの至近にいない限り、人の輪郭さえつかめません。
ところが、せいぜい10数メートルしかないトンネルが終わりません。
いつもなら、一歩ずつ大きくなっていくはずの出口の明かりが、さして大きさを変えてこないんです。そして先をいったはずのあの子もまた、一向に光の中へ現れません。
やばさを感じ取り、おじさんは踵を返します。背後の光もまた、前方のそれと同じくらい遠く、またいくら歩いても近づいてきませんでした。
前後がダメなら、横。おじさんは左右の壁をさすり、穴が空いていないか探り出したところで、不意にうつろな声が響きます。
「こらこら。父さまにまでそんなことしちゃダメでしょ。早く出してあげなさい。『ふーん、ふーん』よ」
若い女性の声でした。しかも『ふーん、ふーん』のくだりは、おじさんが小さい頃、親に教わった鼻のかみ方にそっくりだったのです。
ぱっと周囲が明るくなり、気がつくとおじさんはトンネルの外にいました。この景色は、くぐり終えた向こう側のものです。首を傾げながらその日は家に帰りましたが、あの時、先にトンネルへ入った子は、帰ってきませんでした。
捜索願も出されましたが、とうとう発見されることはなく、彼のご家族も遠くへ引っ越してしまったそうです。おじさんは何も言いませんでしたが、誰かが「あのトンネルのしわざだ」と広め、一時期、心霊スポットのようになってしまったとか。
やがて成長したおじさんは、おばさんと結婚しましたが、20年近く子供に恵まれませんでした。病院で調べてもらったところ、おじさんは極端に精子が少ない体質だったとか。
おじさんはそれを聞いて、ふとトンネルで聞いた「父さま」という言葉を思い出します。
ひょっとして冷えを感じたあの時、自分が高架下に精子をがっつり持っていかれたのではないか。あの食べ物、飲み物のこぼし具合は、それを取り入れやすくするための、調理だったのではないか、とね。