第54話 再出発
『ふふ、ダメですよ、勝手に入ったら。一応ここは、最高機密なんですから』
『いつか、全てが終わったら。もう一度あの変な神様と会って話がしたいなぁ』
『太一…信じてはいたけど…本当によかった…。ぐす。もうだめかと…何度も…』
『あなたなんかに、太一の身体のひとかけらだって、渡すものですか!』
(ナーシャ!!)
目を開けると、そこは見覚えのない、暗い部屋の床の上だった。
先程までひどく取り乱していた自分を思い出した。
気絶…していたのか。
情けない。
ナーシャ。君が俺を、ここに逃がしてくれたんだよな。
きっと、自分の身も顧みず。
俺の命は、皆と違って、一つじゃないっていうのに。
おまけに俺はさっきまで、現状把握をする前に、現実逃避をしてしまっていた。
情けない…。俺の精神は、ひとつも成長していなかった。
力に溺れて、慢心していたんだ。
努力して得た力でもないのに。
くそ!!!!
怒りに任せて床を殴りつけた。
床はベコンと凹んだが、この区画はなぜか鋼鉄製らしく、殴った腕は少し痛かった。
これから俺…どうすればいいのかな。
S級ダンジョンが3つになったということは、ルシファー並の強さの敵が、三体もいるということ。
アレクがいるとはいえ、彼は容易に戦闘に参加してよい人間ではない。
彼を失えば、人類は間違いなく敗北する。
俺だけで、敵と戦い続けられるのかな。
ナーシャ、店長、リーリャ、ルーパー。
皆を失ってなお、戦い続けることができるだろうか。
それに、『ゲート』が開くという絶望までのタイムリミットが存在する。
―S級化によって、更に短くなったという。
それすら、ナーシャの『ダンジョンマップ』が失われた今となっては、存在すらも不確かだ。
(地に…足がついた心地がしないな)
立てない。
鋼鉄の床をへこませるだけの力はあるのに、ここから立ち上がることが…怖い。
俺がどれだけ彼女に頼っていたのかが、よく分かった。
『太一は、『力』だから!』
この言葉にいい気分になって、浮かれて、どこか現実を甘く見積もっていたんじゃないか。
この世界は、もう終わる寸前だ。
そして俺は、自分一人では、なんにも出来ないままだったんだ。
くそ…くそぉ…畜生…。
うぅ…うぅぅぅ。
太一はうずくまって、涙を堪えられず、泣いた。
物心ついてから、こんなに感情を揺さぶられたのは、初めてだった。
自分のルーツを知り、すべき使命を与えられて、ようやく色付き始めた彼の人生。
その、最初にして、最大の挫折が、今一気に彼を襲っていた。
コツ、コツ、コツ
コツ、コツ、コツ
コツ。
…
気が付くと、すぐ隣に、先程会議場で見たグラサン男の気配があった。
俺をここに運んだのは、彼だろうか。
情けないのと恥ずかしいので、顔を上げられない。
「ここの床を凹ませる元気があるなら、まだ使い物になるな」
彼は低い低い、静かな声でそう話した。
「…」
「お前にやってもらいたいことがある。雪を救ってやってくれ」
救う、だって…?
「彼女はルシファーとエウゴアに大切な人達の尊厳を全て踏みにじられた。そして彼女自身も。化物に変えられる寸前で、アレクが救出したのだ。彼女は最初に連れて来られて目を覚ました時、暴れに暴れた。移植された『能力』も使ってな。今は、静かに心を閉ざしている」
「…今、俺が、その子のために、なにかが出来るとは思えない」
「俺の目にもそう見えるよ。だがアレクから伝言があるのでな。『タイチなら、彼女を暗闇から救い出すことが出来ると信じている』と」
「…」
「やれるか?」
俺なんかには、無理だ。
今は、自分のことだけで、精一杯だ。
「フゥ、やれやれ。ではそんなお前に、アレクからもう一つ伝言だ。いいか、よく聞け。『希望を捨てるな』だ」
(なんだって?)
顔を上げて、男を見る。
「ようやく顔を上げたな、日本人」
「どういうことだ、それは。みんなが生きているかもしれないってことか?」
「さぁな、俺は知らん。アレクはそれしか言わなかった」
(皆が生きている可能性がある)
今はそれだけが、俺にとって何よりの希望だ。
足に力を入れる。立ち上がることに、恐怖はなかった。
情けない話だが、俺はやっぱり、一人では生きてはいけない。
いつの間にか、そうなっていた。
でも情けなくてもいい。他の誰でもない、アレクの言ったことだ。今は、皆が生きていると信じて、自分に出来ることをやろう。
涙を拭いて、目の前の男に向かい合う。
「手間をかけさせた。えーと」
「クリスだ。クリス・オーエンス」
「えと、オーエンスさん。その、ありがとう。で俺は、何をすればいいんだ」
「フン、クリスでいい。ようやくまともな顔になったな、ワタセタイチ。ではまずは…」
出来ることなら、あの頃に戻って、やり直したい。
でも今は、俺に出来ることがあるのなら、それを全力でやるんだ。
必ず、皆を取り返すんだ。
「ではまずは…風呂に入ってこい。レディの前に立つんだ。身だしなみはしっかりな」
カポーン
はぁ~。
ゆっくり風呂につかったのって、いつぶりだっけ。
あいつ…クリス、ぶっきらぼうでちょっと変だけど、いいやつだな。
風呂に入る前にクリスに言われたことを思い出す。
『ワタセタイチ、雪に会う前に、ひとつ注意しておく。彼女の異形の腕には、絶対に触れるな。あれは恐らく、ルシファーが使ったという『消滅』の力の一部を移植されている。不用意に近づくと暴走した彼女に消されるぞ。実際、何人かが体の一部を持っていかれた』
『分かった。気を付けるよ』
『今のところ、掌以外なら触れても大丈夫なようだがな。油断だけはするな。…だが、それを踏まえたうえで、君は、彼女を人間として接してやってくれ』
…精神科医のような仕事だな。いや、実際幾人もの精神科医が彼女を診ただろう。そして、治療に失敗したんだろうな。
俺にそんな仕事が回ってきた理由はなんとなく分かる。それは俺がURスキル『意思疎通』を持っているからだ。
いや、それをどう使えばいいのかはまだ、よく分からんのだけど。
ザバァと風呂から上がる。
解決策なんて何も思い浮かんではいないが。
風呂に入ったおかげで、今までの心に巣くっていたわだかまりは、少し洗い流せた気がする。
まずは、彼女に会ってみるとするか!
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俺の想像は、やはり、甘かったと言わざるを得ない。
ガシャン
異形の左腕には包帯がぐるぐる巻きに巻かれて、その上で鎖につながれていた。
彼女は、椅子に座ったまま、暗い鋼鉄の部屋の天井を眺めていた。
じっと。微動だにもしないまま。
彼女を監視していた監察官は、明らかに彼女におびえていた。
まぁ無理もない。これまで何人かが『能力』の被害に遭ったらしいからな。
「ご苦労。彼は、今後彼女の心の治療に携わる、戦士ワタセだ」
「はっ!大変ご苦労様であります!では、自分は失礼します!」
「御覧の通りの状況だ。だが、これから君は四六時中を彼女と共に過ごし、彼女の精神を何としてもこちら側に引き戻せ。寝る部屋は隣を使え。暴力と性的行為以外であれば、どんなアプローチでも構わん」
「んな事するか!」
「タイチ」
「ん?」
「頼んだぞ」
「…なぁ、あんたは何で、彼女のためにそんなに一生懸命なんだ?」
「ひとつは人類のため。彼女の力とその特異な在り様が、人類生存への鍵となるかもしれない。あとのひとつは…」
「俺の故郷はアメリカ、だった。その程度のことだ」
そう言い残して、クリスは去っていった。
相変わらず、ハードボイルドなことで。
(あいつも、色々あったんだろうな)
雪の前に歩いていく。
「よっこいしょっと。前を失礼するよ」
椅子に座る彼女の正面に向かい合うように、あぐらをかいて座った。
ワンピース姿の彼女は、目を閉じていれば、まだあどけなさの残る可愛い十代の女の子だ。
だが焦点の合わない目を開いた瞬間、その歳には似つかわしくない、絶望が溢れ出てくる。
綺麗な黒くて艶のあるショートの髪の毛は、襟足の方が赤く色づいていた。
地毛…でも、染めた…わけでも、ないんだろうな。
そして、包帯でぐるぐるに巻かれた、異形の左腕を見る。
瞬時に、ルシファーに頭を消滅させられた時の恐怖が心の底から湧き上がってくる。
だが、死に物狂いで、その感情を抑え込む。
あの『能力』に一度殺された経験のある俺が、だからこそ、彼女を怖がらない。
(大人になるんだ。俺…)
これは、大人の仕事だ。
「初めまして、まずは挨拶だな。俺は渡瀬太一、日本人だ。色々加護とかもらっちゃって、二十歳くらいに見えると思うけど、三十歳だ。君は雪っていうんだね。姓は聞いていないから、名前で呼ばせてもらうよ。俺のことも太一でいいからね。君は中国の生まれなんだってね。行ったことはないけど、中華料理は大好きだ。えと、よろしくな」
その日から、太一の挑戦が始まった。




