第20話 海になるか
第20話 海になるか
「住む人のいない家は荒れます。
私がお店をたたんだ後、ここを借りるなり買い取るなり出来れば、
家は傷まず、ホークスさんの負担も少なく済みます」
「えっ、銀鷹丸さん、ここに移住する気?」
「はい」
銀鷹丸さんはやはりきっぱりと言い切った。
「赤さん、よう言うてくれた…おおきに」
姉は彼女の前に正座をすると、指をついて伏せた。
銀鷹丸さんも姿勢を正した。
「私こそ…もう若くもありませんし、よそ者ですが、
何卒よろしくお願いいたします」
それから帰る日まで、俺たちは家のことについて話し合った。
自宅は俺が相続すること、相続して銀鷹丸さんに売却すること。
売却は家具や家電製品なども含めること…確かにこれらももう不要だ。
「なんであんなぼろい家具まで?
今住んでるとこのんを持って来た方が、新しいてええやん」
これには姉も不思議がった。
「…あまり変えたくないのです。
つまり、所有者が変わっても、そのままおふたりのご実家として、
いつでも帰って来られるようにしたいのです」
銀鷹丸さんはそう説明した。
「銀鷹丸さんさ、こんなくそ田舎のボロ家の何がいい訳?」
帰る前日の晩、姉も帰ってふたりになったところで、
俺はあの窓辺で濡れた髪を拭いている銀鷹丸さんに聞いてみた。
いつもきちんと結ってあるあの和髪もほどくと、けっこう長い。
「私は生まれも育ちも東京なんです…」
彼女はうつむいたまま、話し始めた。
灯りを消した部屋に、窓からの月光がいよいよ青く、
髪の間から見え隠れする白い顔を染めていた。
「私の他には両親と弟がひとりいます。
実家は旧くからある家なので、弟が継ぐ予定です。
早い話、実家や故郷にとって、私はまったく要らない子なのです」
「こう言うのもなんだけど、家事要員やお金を稼ぐ働き手としては必要なのでは?」
「いいえ、家事は家政婦さんの仕事です。
実家はお金にも困っていません、だから私は本当に要らないのです」
銀鷹丸さんはあの「銀鷹」のママだから、金持ちなのではなかったのか…。
その立ち居振る舞いも、水商売で身につけたものではなかったのだ。
「『銀鷹』も…いくら経営者で定年はなくとも、
事実上40前後が定年の世界のことです、ずっとはやっていけません。
でもここは違います。
こき使える働き手としてでも、私をずっと必要としてくれています」
「…俺もあんたが必要だけど?」
俺は銀鷹丸さんの隣に腰をおろした。
「俺をわかるのは、あの微妙なところまでわかるのはあんただけだ、
俺を連合から除名したあんたは、要らないかも知れないけど…」
こんな辺鄙なところのボロ家が実家な男なんか。
生粋の日本人じゃない、異質な俺なんか。
窓の外の海は俺を受け入れなかった。
あんたは海になるか?
銀鷹丸さんはタオルを捨てて、その手を海風にして、
俺の頬をそっとひと撫ですると、まっすぐに見つめてきっぱりと言った。
「私は元気です」
「え…」
「ここで元気になったから、今宵は私にお付き合いくださいな。
ホークスさんが私を必要としているより、
私の方がずっとホークスさんを必要としています。
これだけは自信あります」
もう何も言う事はなかった。
俺たちはその先の言葉を絶して、暗がりにお互いを沈めた。
筋肉、乳房、喉仏、生殖器、脂肪、体毛、精神、時間…。
お互いの足りないところを持ち寄って、埋め合わせた。
お互い、男に、女に、その両方になって。
そうして抱き合っていると、なんだか自分が完全になれたように思う。
それは銀鷹丸さんも同じだった。
普通、そこは「ひとつになれた」だろが。
「…不思議ですね」
「ああ、不思議だと思う…でも俺は困った。
母が亡くなって、俺があんたに頼めることがなくなってしまった。
また元の不完全な自分に戻るのが怖い」
「大丈夫ですよ」
銀鷹丸さんは俺の上になって、耳元でそう言った。
「私が離しません、だって私はあなたの彼氏ですもの…」
「彼女にもなってよ」
「あら、じゃあホークスさんも私の彼氏も兼ねなくてはね」
「いいよ、俺たちはお互いが彼氏で彼女だ」
俺たちは時間を忘れた。
同時に、東京のことも忘れていた。
翌朝、実家を出る前にスマホを見たら、すごい数の着信があった。




