80、怪盗の記憶
コンコン
控えめなノック音が聞こえた。
「ローズさん、お待たせしました」
マスターがトレイを持って、部屋に入ってきた。和風のだしの香りが部屋に広がった。
シャインくんが、どこからかたくさんのクッションを持ってきて、上体を起こした私の背後に積み上げてくれていた。
だが、無造作に積み上げられたクッションはポロポロとベッドから落ちていく。落ちては拾って積み上げる……必死にクッションと格闘しているシャインくんの姿に、私は思わず笑みがこぼれた。
「シャインくん、ありがとう。でも、一つで大丈夫よ」
「えっ? あ、はい」
「ふふっ、ローズさん、シャインはクッションだらけの中が居心地がいいらしいのです。シャインが体調を崩すと、いつもクッションだらけの中で丸まっているから、持ってきたんだと思います」
「これはシャインくんの私物なの? 後ろにクッションがあると、起き上がっていても楽だわ。ありがとう」
シャインくんは、少し照れたような自慢げなような表情を浮かべていた。クッションには、青く長い毛がついていた。そっか、シャインくんは狼だったわね。
「3階の自分の部屋から持ってきたようですね。ローズさん、食欲はありますか。雑炊を作ってきたので、少しでも食べてくださいね」
「ええ、ありがとう。だしのいい香りがするわね。いただくわ」
「はい。何か他にも食べられそうなら、シャインに言ってくださいね。いま、シャインは、ローズさんの付き添いミッション中ですから、何も遠慮はいりません」
「ミッションなの?」
「ええ。お手伝いもすべてミッションとしてギルドを通しているんです。この子の教育の一環ですね。継続していないとギルドの存在を忘れてしまうので」
「そうなのね。すぐに忘れてしまうのは種族の特徴なの?」
「そうですね。シャインは、人でいうと生後数ヶ月くらいの赤ん坊なんだそうです。だからまだ全然訳がわかってません。シャインはハーフなので人の姿に変われるんですけど、純血の守護獣なら、これくらいの時期はまだ人の姿にもなれないし、言葉も理解できないようです」
「へぇ、お母さんが守護獣なのよね」
「ええ、そうです。シャインの双子の妹のルシアは、人族の血が濃いのですが性格的には狼に近いんです。シャインは、狼の血が濃いのですが性格的には人族に近いです」
「なんだか面白いわね。私は、シャインくんのお母さんには会ったことがないような気がするわ」
「そうかもしれませんね。彼女は、イーシアと、この島を行き来していますが、今年は学園の仕事はしていないので、あまり街にはいませんね」
「学園の仕事って、先生?」
「ええ、歴史学を担当させられているようです。新入生に守護獣がいるときは、非常勤で教師をしています」
「へぇ。確かに同じ種族の先生がいる方が、生徒としては安心ね」
「うーん、逆なんですよ。守護獣の新入生がいると、他の教師の手に負えないことがあるようで……」
「そ、そうなの? もしかして、お母さんって強い守護獣なのかしら」
「ふふ、強いですよ。僕は彼女に守られてばかりです」
(ええっ? マスターが守られる?)
「父さんは普段は弱いんです。普段は闇を使わないから。だから僕も大きくなったら、父さんを守れるようになるんです」
「シャインくん、頼もしいわね」
そう言うと、シャインくんは顔を真っ赤にして、うつむいてしまった。ふふっ、かわいい。
「じゃあ、僕は下にいますから、他に食べられそうなものがあれば、シャインに言ってくださいね」
マスターは、そう言って、部屋から出て行った。
私は、握りしめていた本屋の袋を枕元に置き、雑炊を食べた。とても優しい味がする。私の胃は久しぶりの食べ物に喜んでいるようだ。
シャインくんはベッドに乗らなかったクッションをソファに並べていた。散らかったものを整理整頓しているのか、もしくは積み木のようなおもちゃ代わりなのかはわからない。
(ふふ、なんだか癒されるわ)
私が食べ終わってスプーンを置くと、シャインくんはそれにすぐ気づいて、私の方へ振り返った。
「あの、何か食べたいものはないですか」
「ええ、今はこれで大丈夫よ。久しぶりに食べたから、胃が驚いているかもしれないわ」
「じゃあ、もう少し寝る方がいいと思います。父さんも転移酔いのときは、ごはんを食べたあとは寝ています」
「転移酔い?」
「はい、父さんが、ローズさんは転移酔いだから、しっかり見ててあげてねって言っていました」
「そう、私は転移で意識を失ったのね」
(魔法袋から出ると体調が悪くなると言っていたわね)
私は、魔法袋に入ることを承諾した後、すぐに意識が途切れたような気がする。魔法袋の中は、時間がほぼ止まると言っていたけど……。
「じゃあ、僕はトレイを下に持っていきます」
「ええ、マスターに美味しかったと伝えてほしいわ」
「はい! わかりました」
シャインくんが出ていき、私は部屋に一人になった。魔法袋から出してもらった記憶がない。
ここに運び込んでくれたのは、怪盗なのだろうか。
そういえば、マスターは怪盗を知っているようだった。この街の住人なのかもしれない。
(お礼も言ってないわ)
私は、もう一度会いたいと思った。怪盗の呼び方は覚えている。でも、依頼すべきことがないのに呼び出すのも迷惑になるだろう。
あれこれと考えている間に、私は再び眠りに落ちた。
近くで人の話し声がして、私は目が覚めた。起き上がっても、もう体調は悪くない。ソファに並んでいた大量のクッションはなくなっていて、代わりに大量のクラスメイトがいた。
「あっ! ローズ、起きたか」
「話し声で目が覚めたわ」
「悪い、そろそろ大丈夫だとマスターが言ってたからさ」
「そう、もう大丈夫みたいだわ。さっき起きたときは辛かったけど」
「ローズさん、食事を持っていきましょうかって父さんが言っています」
「シャインくん、大丈夫よ。店に下りていくわ」
そう言うと、シャインくんはニコっと笑った。
クラスメイトは、誰も怪盗の話をしなかった。私が体調を崩してここに運ばれたと思っているようだ。
「ねぇ、みんな怪盗の話をしないのはなぜ?」
「ん? 怪盗? ローズ、何を言ってるんだ? 変な夢を見ていたのか」
「ローズさん、二日間も眠っていたのでしょ? 記憶と夢が混乱してるのよ」
「私はどうして、ここに運ばれたのかしら」
「女神様の城で倒れていたそうよ。ティアちゃんが城兵にここに運ばせたって聞いたわよ」
「えっ? 女神様の城?」
「ローズさん、この街からうっかり女神様の城に転移しちゃったんじゃない? 塔にある転移魔法陣から、女神様の城へ行けるもの」
「いえ、そんなことはないわ」
「でも、その症状は転移酔いよ?」
「それは、地球からの転移じゃ……」
「あはは、ローズ、やっぱり夢だぜ。地球ってなんだ? そんな地名は知らねぇぞ」
「アルフレッド、正気?」
「ローズちゃん、たぶん変な夢を見たんだと思うぞ。女神様の城は遠いから、長い距離を転移しちまった副作用だぞ」
(うそ、みんな怪盗のことも地球のことも忘れてる?)
私はクラスメイトを見回した。ルークだけは首をひねっていた。
「ルークさん、地球や怪盗のこと、覚えてるわよね?」
「えっ? うーん、怪盗はわかるんですが、なぜローズさんが怪盗の話をしているのかがわからないです。何か依頼して解決したんでしょうか」
「怪盗は、地球の爆発を阻止してくれたのよ」
「ローズ、怪盗は盗賊だぜ? 盗みしかしねぇだろ」
(あっ、そうだわ、キーホルダー)
私はポケットの中のキーホルダーを出した。建とおそろいのキーホルダー。
「ほら、これが証拠よ」
「ん? 宝石か?」
「違うわ、キーホルダーよ」
「ローズさん、そもそも怪盗なんておとぎ話だよ?」
「シャラの言うとおりだぜ。怪盗は、40年ほど前に処刑されたんだぜ?」
「イビル大商会のことで、みんな怪盗がいるってわかったじゃない」
「イビル大商会? 何だっけ?」
(それも覚えていないの?)