第一幕
確かに、何となくこの世界に違和感があった。
日本有数の会社の名前が何となく違う様な気がいつもしたし、GHQによって一度解体された筈の財閥が解体されていない体で家庭教師の話は進むし。商品の名前とかもやっぱり違和感があった。
今から落ちてくる大量の学校の資材を前にして前世の記憶が甦った。到底信じられないけど、もう一人の自分は当たり前に受け止めているような、不思議な感覚。びっくりする程全てがスローモーションに見える景色の横で綴が呆けた顔をしている。どうして良いか分からないのだろう。あの子は私がいないと何も本当に分からないから。今までの私がそうさせてしまったから。
(取り敢えず……………この状況を整理しなきゃいけないわ。………この資材を頭でキャッチしてから。)
「ゴンッ」
鈍い音が頭に反響して視界がぼやけた。遠のく意識の中で慌てた様子の教師の声と「紫苑…?」と綴が呼ぶ声が聞こえた……………
……………恐らく今いる部屋の外の声だろう。小さな子供の笑い声が聞こえてくる。今は休み時間なのかもしれない。ヒリヒリ痛むおでこを抑え、身体をゆっくりと起こす。
静乃宮紫苑。その名前は間違いなく、「テン上人とのコイ遊戯」という乙女ゲームに出て来る大企業「シズノ」の悪役令嬢だ。幼い頃から腰までかかったいぶし銀の様な長髪。暗紅の大きな瞳の奥はどこか、綴に対する異様なまでの執着心と狂気を孕んでいる。キャッチコピーは「狂気の傀儡子」。育った環境からか、5歳で婚約した「テン上人とのコイ遊戯」の攻略対象の「一之宮財閥」の御曹司一之宮綴にベタぼれで綴の全てを支配しようとする。綴も自分を生んだことで母親が早逝している為、父親に引け目を感じており、どう接したら良いのか分からずよそよそしい態度で接する父親に憎まれていると思っており、冷遇ともとれる父親の態度と財閥の御曹司であるためか一線を引かれていた綴にとって自分を見てくれる紫苑を受け入れてしまう。その為今までお父様と愛人の子としてお爺様に見つかるまで存在を隠されていた紫苑の腹違いの兄弟であるヒロインが高等部に入学して綴と出会って攻略されるまで紫苑がいないと何も出来ない只の傀儡となっていた。キャッチコピーは「悲しみの傀儡」。
………今、思い出せるのはこれくらいだろうか。前世の記憶が大量に入ってきて基本的な情報しか思い出せない。一息付いて、ベットの傍に置いてあった芳しい香りのハーブティーを飲む。
(まさかこの世界が乙女ゲーの世界だったなんて。いや、どちらかと言うと「乙女ゲーと同じ未来になる世界」の方が表現が正しいのかもしれない。紫苑が前世の記憶を思い出したなんて事はストリー上に無い。今、私と綴は11歳。十分私の行動次第で綴が高等部に進学するまで傀儡な未来は回避出来る筈だわ。今は思い出せないけれど、ヒロインと結ばれた綴の陰に起こるであろう悪役令嬢の悲惨な末路も。)
「し、紫苑……………?起きた……………?」
綴がベッドと保健室を仕切るカーテンからひょこっと顔を出した。大量の氷が積まれた桶を持っている。やはり濡れた烏の様な青みを帯びた艶やかな黒髪に彫刻のようにすっと通った鼻は、人目を引く妖艶な美しさがある…………予定の一之宮綴である。
「起きたわよ。そんなに氷は必要無いわ。綴に話したいことがあるの。」
行動は早ければ早いほど良い。この11年間の静乃宮紫苑は大分中身の空っぽな人間だったみたいだ。あんなクズみたいな環境で育ったのだ。前世も大概だが、今世は倫理観が基づく遥か前に子供の普遍的な感情が壊れてしまったのだろう。前世の比較的冷静な判断を反発する様な感情は沸いてこなかった。こんなクズみたいな世界、なんて思ってしまうは前世も今世も全く変わっていないけれど。
厳しい顔をした紫苑に殊勝な顔で綴はこくんと頷く。
すると私のおでこに氷が入った袋を当ててきた。
(私「助けて」なんて言ってないのにこんな事をするなんて不思議ね……………?)
「…まぁ、いいわ。私正気を取り戻したのよ。」
案の定、真顔でおかしな事を言う紫苑を不思議そうに綴が首を傾げた。
いつも、何か教えてあげると、いつも、この顔を綴はする。この無垢で傷付けやすいこの子を優しく守ってあげれている気持ちになるから、堪らなくこの顔が好きだった。一番傷付けていたのは私だったのに。訳の分からない優越感を抱いて、誰かに必要とされていると思いたかった。正直誰でも良かった。たまたま、私の必要とする役割に綴が嵌っただけ。これは恋と呼ぶには汚れすぎている。
「今まで貴方を傀儡……人形の様にしてしまった。貴方はまだ気づかないかも知れないけれど、とんでもない事を私は貴方にしてしまったのよ。ごめんなさい。」
「……………何で謝るの?」
「それが良くない事だからよ。」
「良くない事だなんて誰が決めたの?」
「人は自分の意志で自分らしく生きるべきよ。貴方は私の為に存在する訳ではないわ。」
「でも、僕は自分の意志なんて元々無いよ。空っぽだよ。君はそう言った。」
「えぇ、私は貴方に最初に会った時、そう言った。私もね、さっきまで余りにも単純な色に薄く染まっていただけだった。」
「今は違うの?」
「多少はね。」
「じゃあ、君の色で僕を染めれば良い。それが僕の意志だ。」
「それでは今までと同じ。色んな人の色に触れていけば、貴方が出来上がるのよ。」
「つまり……………僕はもう紫苑にとっていらないの?要らなかったの?」
煤色の瞳が不安げに揺れて紫苑を見つめた。
「………………君が落ちてきた資材に頭をぶつけた時に僕は咄嗟に動けなかった。多分何でかっていうと君の言う通り僕は君の人形だからだ。人形は何があっても自分で動けないから。助けようと思う気持ちも出てこなかった。どうなっているんだろうと思った。君が動かなくって僕はどうすれば良いのか分からなくなった。これから、もし君が二度と起きなかったらどうしようと思ったんだ。僕はこの後どう生きれば良いのか分からなかった。君のそのケガよりも僕は自分が心配だったんだ。だから僕は必死に考えた。僕はどうしたいか。僕は君のそのおでこの腫れ冷やしたいと思った。これが君の言う僕の意志…だと思う。」
(………これはどういう事なのかしら?もしかして資材が落ちてきて私が怪我をするってこと自体が有り得ない事だったり……………?)
「…でも、これから先、私じゃなくてきっと近いうちに貴方を人間にしてくれる人が現れるわ。」
「婚約を解消して欲しいの?」
「……そう。」
(婚約を決めた御爺様の決定に歯向かう事になるけれど、策はある。)
「嫌だ。今、ハッキリと分かった。僕は君にずっと傍にいて欲しいと思っている。それが僕の意志だ。君が僕を傷付けている事なんかどうだっていい。僕は今自分の意思を理解できたんだから。僕は好きに生きる。婚約は解消しない。」
「それは…………一時の迷いだわ。」
「そんなこと無い。」
決然とした表情で綴は紫苑を見た。今だに揺ら揺らと揺れている。今まで依存していた私から離れるのが怖いのだ。きっと。
(…今すぐに綴を自分から離すのは難しいわ。当然っちゃ当然よね。6年も一緒にいたのだし、少しずつ離していくしかない。婚約を解消するのだって今すぐには無理があるもの。後は、私のヒロインが綴を攻略した時の末路だけれど、これから4年と少しかけて私と綴が「只の利害関係による婚約者」になれば心配無いかも知れない。)
「じゃあ、こうしましょう。私と綴が大人になって結婚する事になるまでに貴方の意志がまだ私の近くに居たいと思っていて、自分の意志で動けているのであれば、私は今日の様な事は二度と言いませんわ。」
(ヒロインと恋さえしなければ私は、敢えて危険な事をする必要だって無いもの。本当は今すぐにでも婚約を解消して私は「シズノ」の跡取りとして御爺様にお願いするつもりだったのに。綴の婚約者をヒロインにしてもらって。私や見たことも無いお母様の家には帰ってこず、愛人との間の子と三人で暮らしてるお父様なら「シズノ」の跡取りの様に大変でも無く、大財閥の婚約者という生涯安泰の席を埋めて関係を作りたい御爺様の心境を知ったら、一瞬で娘と愛人の存在を公表するだろうと思ったのだけれど。まぁ、婚約者も中々大変なのだけれど、私が出来るのなら愛娘も出来るだろうみたいな事を考えてらっしゃるでしょうし。まぁ、こんな事はいつでも出来るし…………なのに、何か嫌な予感がしますわ。)
「うん。約束する。必ず君と対等な「人間」になれる様に、あとは僕の気持ちをちゃんと分かってもらいたい。」
「…………そういうのは、道楽で仰るのはどうかと思うわ。」
(うーん。…まぁ、良いですわ。というより、やっぱり頭が大量の情報が入ってきて本当にクラクラしてきましたわ……………)
再び紫苑が本人の意図せず倒れこみ、そのまま三日間謎の熱に苦しめられるのは遠い遠い試練の始まりに過ぎないのであった。
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最後まで読んでいただき有難うございました。少々変わったキャラクター達が今後も登場致しますが皆さんに楽しんで頂ける様に頑張りますので応援よろしくお願いします。