その参
「ん……」
桐生は薄っすらと瞼を開いた。なぜか寝苦しくて、目が覚めてしまったようだ。チクタクと音を立てる時計の針は十二時過ぎを指していた。
床についたのが十時頃だったから、二時間ほど眠っていたらしい。夕食の後、九条は風呂を浴びて、入れ替わりで入った桐生が上がったときにはすでに眠っていた。
他にすることもないので、早めの就寝となったのだ。なんだかんだで桐生も疲れていたようで、すんなりと眠りに落ちたのだが。
桐生は頭をかいて布団から起き上がる。横を見ると、九条が穏やかな表情で眠っていた。
まだ眠気はあるが、無性に喉が渇いている。たしか一階に自販機があったはずだ。
桐生は財布を手にとって部屋を出た。廊下は目に優しい程度の光源で照らされていたが、すべての窓に当て布がされていた。
そういえば何かの神事があるんだったか、ふと思い出して少し心細くなった。だが大の男が廊下で立往生というのも情けない。それにまだまだ丑三つ時というのには浅い時間帯だ。起きている人も多いだろう。
階段を降りて、自販機が設置されていたホールに向かう途中。広間らしきところから光が漏れていた。それ自体はおかしなことではないのだが、なにやら揉めているような声が聞こえる。
盗み聞きをするつもりはなくても、静まり返った廊下にいては自然と聞こえてしまった。
「馬鹿者!」
「瞳ぃ……瞳ぃ!」
「とにかく◯◯さんに連絡を……」
老人、男性、女性の声が聞こえてきた。それに混じって「ひっ……ひっ……」という笑っているような、泣いているような声も聞こえる。
他人事に首を突っ込むのは憚られるが、明らかに異常事態だ。警察官として役に立てることもあるかもしれない。少しの逡巡の後、桐生は思い切って声をかけることにした。
「あの……どうかしましたか」
広間にいた人の目が一斉に向けられる。そこには五人の大人と、二人の子供がいた。夕方に会った子供達だ。それに女将もいる。
啓太は涙を浮かべて縮こまっていて、もう一人の子は輪の中心で男性にしがみつかれていた。
「お、お客様……すみません、これは身内の問題ですから」
非常に焦った様子の女将が言った。確かに状況だけ見れば、悪さをした子供達が叱られているだけなのかもしれない。しかし、これは明らかに違う。
瞳、と呼ばれている子供が、この世のものとは思えないほど不気味な笑みを浮かべていたからだ。それにしがみつく男性も、必死の形相で名前を呼びかけている。
「……私の連れが力になれるかもしれません」
桐生は瞳の様子に圧倒されながらも、そう告げた。女将たちは、桐生の言葉に目を見開いた。信じられないと思いながらも、すがりつきたいというような表情だった。
桐生は早足で部屋に戻る。階段を駆け上がって、部屋の扉を開けた。そして眠っている九条の側に屈みこんだ。
「九条、おい九条! 起きろ!」
よだれを零しそうなほどに安らかな表情を浮かべる九条の肩を揺する。
「む……むぅ?」
「九条! 良くないことが起きてる! とりあえず起きてくれ!」
「へ、へえ? なんだい突然……」
当然といえば当然だが、九条は状況が飲み込めずに困惑しているようだ。だが説明するのと難しい状況だ。直接見てもらうのが一番早いはずだ。
「悪いな、九条」
桐生はそう前置くと、九条を体に手を回す。軽々と抱き上げて部屋を出た。九条は桐生の腕の中で固まっていた。
「ちょ、ちょ……分かったから降ろして!」
なんとか覚醒したらしい九条が抗議の声をあげたので、廊下の床に降ろしてやる。九条は乱れた着衣を直しながら、不機嫌そうに桐生を睨め付けた。
「とりあえず案内して」
一応仕事モードに入った九条を、広間まで案内した。広間に近づくにつれて、九条の眉間のシワが深くなり、警戒の色が濃くなっていった。
「……どうも、ゴーストバスターの九条です。状況の説明を」
ズカズカと広間に入った九条が、瞳の前に屈みながら言った。ゴーストバスターという怪しげな響きはこの場に相応しくないが、女将が疑念を押し殺して説明を始める。
「夕方にお話しした神事のことなのですが……あれはお客様向けの方便なのです。本当はこの辺りに伝わる伝承で、家から出たり、窓から外を見たりしてはいけない日というものがありまして。例年その日は営業を止めていたのですが、今年は異様に早くその日が来てしまって……」
「彼女が外を見てしまったんですね」
九条が瞳を見ながら言った。
この子はどうやら女の子だったようだ。夕方会った時には男の子のような格好だったから気がつかなかった。
「……はい。すべて私の不注意で……」
女将が顔を伏せた。嗚咽が聞こえてくる。
おそらく、子供達にはよく言い聞かせてはいたはずだ。だが子供の好奇心を抑えるのは難しい。それがこんな結果を生んでしまったのだろう。
「なぜ外を見てはいけないことに?」
九条は女将への慰めもそこそこに、話を続ける。それには、顔をしかめていた老人が答えた。
「海から黄泉の化物が上がってくるからじゃ……こうなってしまえばもうどうにもならん」
老人は苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「朝にこういうことに詳しい知り合いが来てくれることになっているんですが……それでも元に戻ることは……」
啜り泣く女将の肩を抱いて――おそらくは旦那であろう――男性が言った。
桐生が九条以外の専門家の話を聞くのは初めてのことだった。九条という人物がいる以上、そういった能力を持つ人々の存在は信じざるを得ないが、その知り合いが本物である保証はない。
果たして当てにして良いのか。
「このままだと、どうなりますか」
九条が「ひっ……ひひ」と笑う少女の手を撫でながら問う。
「……飯も食わん……寝もせんようになって、笑いながら死ぬ」
老人が言った。
おぞましい話だった。狂ったように微笑む少女は、あまりにも不気味だ。それを見る人間にも、狂気を植えつけかねないほどに。
「ふむ……」
話を聞いた九条が瞑目した。
九条なら何か解決策を考えてくれるはずだ。そんな無責任な期待を寄せてしまうのも仕方ないだろう。
だが彼女はいつも、自分の専門は封印だと言っている。今回の件で、九条がどこまでやれるのかは、門外漢の桐生には全く分からない。
九条に不安と期待の混じった視線が向けられた。それらを一身に受けながら、うんうんと唸ることしばらくして、ゆっくりと瞼を開いた。
「桐生くん……とりあえず、この子を絞め落としてくれるかい」