その伍
再び蔵に厳重な鍵をかけ、全員母屋に戻ってきた。井村が用意したお茶を飲みながら、机を囲んでいる。
「門盃は冥府……つまり地獄と繋がり、そこの汚水を汲み上げていました。湧いた血を飲むと……黄泉竈食の理論で、地獄の苦しみが見えるようになってしまうのでしょう。それに耐えきれず発狂、死亡というのが、門盃の真相です」
黄泉竈食……九条と関わるようになって知った言葉だ。黄泉の国の食べ物で、それを食べてしまうと元の世界へは戻れなくなるのだとか。
今回の場合、地獄の産物を取り込むことで、地獄が見えるようになってしまうということなのだという。
「湧くもの、というのは古くから我々の生活に密着していて、故に塞ぐ方法も長年研究が重ねられてきました」
湧くもの、生活に密着しているもの、塞がなければならないもの、つまり……
「……井戸か」
桐生の回答に、九条がピッと指を立てる。
「その通り、門盃はいわば井戸です。なので、井戸を封じるのと同じ方法で封印しました。湧き出すものは固まった土を通過することができない、というのが封印の理屈です」
九条の説明に、三人が一応の納得をする。存外あっさりした解決だった。
「ともかく、ありがとうございました。これで、日菜も無事に暮らしてゆけます」
「本当に、ありがとうございました」
熊谷と日菜が、畳に手をついて頭を下げる。
一件落着。
これで日菜の命は守られ、これから先に選ばれるはずだった娘の命も守られる。
「……さて、私たちはそろそろお暇しましょうかね」
そう言って九条が立ち上がる。桐生にも、用意をするようにと目配せした。
「もう日も暮れていますし、今夜は泊まっていかれたら?」
井村の提案に、九条は首を振る。
「いえ、あまり事務所を空けておくわけにもいかないので。お構いなく」
「そうですか……せめてお見送りを」
結局、全員が立ち上がって家を出る。荷物をまとめて、門の前に停めてあった車まで行ったところで、九条に日菜が駆け寄ってきた。
「九条さん。本当にありがとうございました……私、色々頑張ります。だから、いつか会いに行っても良いですか?」
「うん、もちろん。そうだ……これを渡しておくよ」
九条が懐から名刺を取り出す。
探偵事務所〈九条軒〉
奇怪な依頼も承ります。
「それじゃあ、またね」
街灯一つない山道を、ゆっくりと進む。山の中腹からは街の光が見えた。まるで異形の光のように、地に張り付いていた。
「今回もご苦労様、桐生くん」
シートに深くもたれかかりながら、助手席の九条が言う。
「俺は明日から仕事なんだぞ」
「だから謝ってるじゃないかぁ……麓に着いたら運転も変わるからさ」
労われはしたが、謝られた記憶はない。
とはいえ、気分は悪くない。警察官としての職務ではないとしても、困っている人を助けるのは桐生にとって生きがいと言っても良い。
明日からが少しキツイが、今回は許してやるとしよう。
しばらく車を走らせているうちに、いつもは五月蝿い九条が黙っているのに気がついた。
疲れて眠っているのかと思ったが、横目で窺うとそういう様子ではない。ブスッとした表情で前を見つめていた。
「どうかしたか?」
「……いや……うん。やっぱり君には話しておこう」
めずらしく口ごもり、もったいをつけてくるので、否が応でも気になってしまう。
「あの盃……以前一度封印されていたっていうのは話したよね」
「ああ、それがどうかしたか」
「その封印は、普通の人間に解けるようなモノじゃなかったはずなんだ。おそらく、専門家の手が入った」
「……つまり、知識のある誰かが危険の承知で封印を解いたということか」
九条は頷き、ため息を吐く。
「可能性の話なんだけどね……少し気になって」
九条が憂い顔で窓の外を眺める。
やっと舗装された道になり、街に繋がる道路へと出た。京都まではまだまだ遠いが、文明の近くに来てやっと安心できる。
(……悪意ある何者かが、盃の封印を解いた)
これを犯罪捜査だと捉えるならば、まず考えるべきは動機だ。一体何のために、そんなことをするのか。しかし、桐生にはその想像はできなかった。
最も恐ろしいのは、動機の見えない犯人だ。
もし犯人というのがいるのならば、その者の存在は脅威でしかない。九条もそれを心配しているのだろう。
しかし、手がかりもなにもない状況ではどうすることもできない。今はここで手詰まりだった。
山沿いの国道を、二人を乗せた車が走っていく。闇に包まれた山から、光に満ちる街へと。