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その弐

 ――血だ。


 血だった。真紅の血液が、盃に満ちていた。まさに溢れる寸前という状況だった。これより先は、表面張力に頼ることになるだろう。


「この盃は、この村に古くから伝わるもので、今となってはその由来の定かなところは分かりません。しかし、この村の住人は頑なにある伝統を守っているのです」


「その伝統とは?」


「……"盃に湧く血を、大地に零してはならぬ"」


 ふむ……と九条が頤に手をやる。


「では、このように零れかけている時はどうしてきたのですか。話を聞くに、放っておくと勝手に湧いてくるのでしょう?」


「……村で選ばれた若い女が、血を啜るのです。そうすることで、伝統は守られてきました。私が産まれる遥か前、祖父の代よりも遥か前からです」


「有害でしょう。これは」


「血を啜った者は、死に至ります。覚悟を決めて臨んだ者も、血を啜った後、何かに怯えるように狂乱し、床に伏せたまま息を引き取るのです」


 九条が少し沈黙する。そして、熊谷の方に顔を向けた。


「今になって外部の者に頼ったのは……娘さん、いや孫娘さんですか」


「はい……私の孫娘が、選ばれてしまったのです」


 熊谷が苦虫を噛み潰したような表情で言った。

 選ばれた……つまり、死が迫っているということだ。


「卑怯者だということは重々承知です。今までも多くの若い娘が、この盃のために死んだ……私はそれを見て見ぬ振りしてきたにも関わらず、いざ自分が身を切るとなればそれを受け入れられない。……私の妻も、選ばれたのです。そして死んだ。もうあんな思いは……孫娘だけは、守ってやりたいのです」


 もはや手の届かない後悔と、まだ手の中にある希望。熊谷はふたつの間で揺れていた。しかし心は決まっている。たとえ誹りを受けることになろうとも、今度こそ守りたいのだと。

 そんな熊谷の思いに感化され、桐生が彼の震える肩に手を置く。


「熊谷さんは卑怯者ではありませんよ……そんな、そんな伝統壊してしまうのが一番だ! ……九条、お前なら壊せるんだろう」


 桐生が九条を見る。九条は否定も肯定もせず、物騒ね、と呟いた。


「熊谷さん。これは男性には飲めないんですか?」


「……ええ、何人か挑んだ者がいたそうですが、盃に手を触れると同時に発狂してしまったそうです。この盃を持ち上げ、口を付けられるのは女だけだと」


 またしても、ふむ……と九条。その瞳は怜悧に細められ、いつものおどけた気配は消え失せていた。


「少し時間をかけて、有効な手を練ります。まだ時間はありますよね?」


「はい。あと一月ほどは持つかと」


「十分です」


 九条が盃に白布を掛け、無造作に取り出した札をその上に置いた。そして三人は蔵を後にする。最後に、熊谷が厳重に鍵を締め直す。母屋に戻る道すがら、熊谷が二人に話しかけた。


「この辺りには宿もありません。古い家ですが、こちらに滞在する間はお使いください。部屋は用意させていますので」


「それはありがたい。この家、趣があって良いですねえ」


 九条が柱の木目をなぞりながら言った。


「築二百年ほどになるようです。あちこちガタが来ていますが、まだ体裁は保っていてくれます」


 二百年……ということは江戸時代から存在しているということではないか。想像を超える歴史に、神妙な心地になる。


 熊谷は台所らしき所の前に立ち止まって、井村さーん、と声をかける。すぐに中から返事があり、先ほど桐生たちを迎えてくれた女性が出て来た。


「こちらのお二人を部屋に案内して差し上げてください。私は一度書斎に戻りますので……それでは、失礼します」


 熊谷が軽く会釈をして、廊下の奥へ去っていく。


「家政婦の井村です。こちらへどうぞ、おほほ」


 井村は人好きのする笑みを浮かべて、二人を案内した。

 通された先は、まるで旅館の一室のような部屋だった。部屋は綺麗に掃除をされ、古い畳特有の香りが気持ちよかった。しかし、ひとつ問題があった。


「それでは、ごゆっくり」


 井村がニヤニヤと笑いながら辞していく。


「お手柔らかに、桐生さん?」


 隣の九条もニヤニヤと笑う。そんな九条を睨みつけて、座布団にドスっと腰を下ろす。

 桐生が横目で睨む先には、布団が敷かれていた。ふたつ並んで。いわゆる夫婦布団というやつだった。


 まさか熊谷氏の指示ではあるまい。となると、井村氏が気を利かせたつもりだったのだろう。若い男女に、と。まったく、余計なことを。


「ふざけている場合か。何か手は思いついたのか」


「まあ、あるっちゃあるけど。予想以上だったね」


 九条も座布団に座って、手を後ろに付いて反り返っている。あれでも気が張っていたのか、深く細く、息を吐いた。


「危険か」


「……危険だね。今まで目立った被害が出てないのが奇跡だと思うよ」


「目立った被害って……十分出ているだろう! 何人もの、下手すれば何十人もの娘が死んでるんだぞ!」


「だから、その程度で済んでるのが奇跡だって言ってるんだよ。この村どころか、ここら一帯が消えていてもおかしくない状況だった」


「っ……!」


 九条の言に声を荒げた桐生だったが、氷のような眼で見竦められ言葉を失う。

 九条は時折、桐生に対してもこのような視線を向けた。それはきっと、専門家としての矜持なのだろう。知識も技術もない桐生は、黙るしかない。


「大丈夫、策はあるから。君が言ったように破壊はできないけどね」


 専門じゃないから、と九条は続けた。

 九条と行動を共にしてきた桐生の知る限り、九条の専門は"封印"だった。異常なものを、あるがまま、封じる。その異常性を消すわけではないが、少なくとも逼迫する危険性は排除することができる。そしてどうやら、その道ではある程度知名度があるようだった。


「準備には時間が掛かるのか?」


「いや、やろうと思えばすぐにでも。でも焦るべきじゃない。万が一、億が一も無いようにしないと。とりあえず聞き込みと文書調査かな」


 ――ここにきて、俄かに探偵らしくなってきた。




 その後、井村が運んできた夕餉を頂き、風呂も頂くことになった。レディーファースト……実際は九条の強硬な主張により、九条が先に入浴することになった。


 九条は脱衣所で浴衣を解いていく。まるで旅館のような広さの脱衣所だった。浴衣姿の九条も相まって、ますます旅館のようだった。脱いだものを適当に丸めて、カゴに突っ込む。


 一糸まとわぬ姿となった九条がガラッと磨りガラスの引き戸を引くと、一般家庭のそれよりよっぽど広い浴室が、湯けむりに包まれていた。


(わぁ、広い)


 九条は大のお風呂好きだった。日がな一日、湯が冷えきるまで湯船に浸かり、桐生に怒られる程度には好きだった。


 掛け湯をして、いざ片足をとぷんと湯に浸けた時。湯船の端で誰かが固まっているのに気がついた。お互いに視線が交錯し、硬直する。


「う、うわっ! びっくりした!」


「ひぃ!」


 九条の叫びに呼応するように、その人物も情けない悲鳴を上げる。どうやらゆったり浸かっていたところに、九条が来てしまい、出るにも出られず、声をかけるタイミングも逸してしまっていたようだった。


「あ、あのぅ……あなたは?」


「え? あ、九条です。探偵の」


 幸いといってはなんだが、鉢合わせしたのは女性同士だった。びっくり以上の混乱にはならず、不自然な自己紹介に留まった。


「探偵……?」


 先に風呂に浸かっていた女性……というより少女は、九条の言葉を訝しそうに反芻した。


「うん。君は……熊谷さんの孫娘?」


 中途半端な姿勢のまま、今度は九条が問いかける。


「え? あ、はい、熊谷日菜です」


 盃の血を啜る巫女として選ばれた娘――まさにその人であった。

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