その壱
月刊と化したシリーズ。
今回は桐生と九条の馴れ初め編。
秋の気配が近づいてきて、空に散らばる雲も高くなってきた日曜日。桐生は九条探偵事務所へ続く錆びた鉄階段を上っていた。穴だらけのトタン屋根から光が差し込んで、より一層廃墟感を助長していた。一応廃墟ではなく、ちゃんと人が住んでいるのだが。
桐生が階段の中程に差し掛かった時、上にある扉が開かれた。
「お、桐生くん。おひさ」
事務所の扉を閉め、鍵をかけながら、九条が巾着を持つ片手をあげた。ひさしぶり、といっても二週間ほどぶりのことだ。
「どこか行くのか」
「うん、依頼」
依頼、という言葉に桐生の表情が硬くなった。その変化に気づいた九条がへらっと笑う。
「怪異絡みじゃないよ。迷子の猫を探しに行くのさ」
海での一件、古森雛助から九条の体質のことを聞かされてから一ヶ月ほどが経っていた。雛助との会話を九条に伝えてはいないが、桐生が九条を怪異から遠ざけようとしていることは、なんとなく伝わっているようだった。
「俺も行こう。その格好じゃ走れないだろ」
今日の九条のお召し物は秋らしい橙色の着物だ。
桐生の指摘を受けて、九条は頬を膨らませる。そして手に持った巾着を自慢げに掲げてみせた。
「走って捕まえようだなんて思ってないし。これで仲良くなって、一緒に来てもらうんだ」
揺れる巾着に入っているのはキャットフードか何かだろうか。
九条が桐生の横をすり抜けて、階段を降りていく。その後ろ姿に桐生は懐かしさを覚えた。
そうだ。確か二年前の今頃に、初めて九条と出会ったのだった。あの出会いと最初の事件については、きっと忘れることはないだろう――。
◆◆◆
天高く馬肥ゆる秋。新米警察官の桐生は、恩師であり上司であった九条景一の屋敷を訪ねていた。
噂には聞いていたが本当に広い屋敷だった。京都市内の外れ、嵐山の近くに位置しているその屋敷は、明治の初期ごろからここに建っているそうだ。
その客間で、桐生は景一と対面している。
「そうか……桐生も一課に配属か。大したスピード出世じゃないか」
「いえ、九条さんのご指導とお口添えあってことです」
「いやいや、実力だろう。噂は聞いてるぞ」
景一は人の良い笑みを浮かべた。すでに現役を引退した身でも、有望な若手の噂は耳に入っていた。それが自らの部下だったならなおさらだ。
桐生は謙遜しているが、その謙虚な姿勢も今回の出世の要因の一つだろう。
小一時間ほど話した後、桐生は御手洗いに立った。平べったく広がる屋敷の中でなんとか厠を見つけ、用を足して客間に戻ろうとしたがどの道で戻れば良いか検討もつかなくなっていた。
まあ広いと言っても屋敷だ。うろうろしていれば知っている場所に出るだろうと、桐生は適当に歩き出した。
廊下を進んでいると、半開きの障子が目に留まった。家の人がいるかもしれないと覗いてみると、案の定住人らしき人がいた。
桐生は声をかけようとしたが、声が音になることはなかった。
座布団の上に片膝を立て、だらしない姿勢で畳に並べた紙に目を落としている人物に、視線が釘付けになった。
光を吸い込むような射干玉の黒髪に、陶磁器のように白い肌。悩ましげに引き結ばれた唇といい、この世のものとは思えないほどの美しさだった。
ひどく中性的で、一見して男か女か分からない。だが、はだけた着流しから覗く脚の艶めかしさは明らかに女性のものだった。
桐生の視線に気づいたのか、その女がパッと顔を上げた。視線が絡んで、女の目が見開かれる。
自宅でリラックスしているときに、知らない男が障子の隙間から覗いていたら驚くだろう。悲鳴をあげられるかもしれないと考えて、桐生は慌てて状況を説明しようとした。
「わ、私は……怪しいものでは」
「…………」
あまりにも怪しい弁解に、女の眉間のシワが深くなった。
とりあえず叫ばれるようなことにならなくてホッと胸をなでおろす。
「貴方、警察官?」
「え……ええ、そうです」
女が再び紙に目を落としながら言った。言い当てられた桐生は驚きの声色を隠せなかった。
冷静に考えれば、見知らぬ人間は誰かの客だと判断するだろうし、景一の客であれば警察官と推測することも難しいことではない。
しかし、景一に娘がいるとは聞いたことがなかった。一体この女は何者なのだろうか。桐生はそっちに気が向いた。
「大丈夫だろうけど、たくさん憑いてるよ」
「付いてる?」
「うん。三……四体かな」
女がチラリと流し見て言った。
まさか幽霊が憑いているの"ついている"だろうか。だとしたら随分奇特な性格のようだ。初対面の相手に憑いているなんて、悪趣味だと思われるのが普通だろう。
しかし先に驚かせてしまったのは桐生のほうなので、そんな馬鹿なと笑い飛ばすこともできなかった。
「どんな奴が憑いていますか?」
相手の冗談に合わせるつもりで、桐生が言った。今まで会ったことがないタイプの人間だったから、ちょっと話をしてみたくなったのだ。
「……一番新しいのだと、小太りで眼鏡をかけた男。首には緑色の血管が浮き出ていて、掻きむしった跡がある。硫化水素で自殺したのかな」
桐生をぼーっと見て、女が語り出した。
その言葉を聞いて、桐生は耳を疑った。
今女が語った男の特徴は、最近まで桐生が担当していた事件の被害者と一致していた。容貌から死因まで、全てが。
「その一つ前は若い女。けっこう焦げてるね、焼け死んだ?」
女が見ているのは本当に桐生なのか。その後ろにいる何かなのではないのか。
ごくりと生唾を飲み込む。
「その前は老婆、胸を刃物で刺されて死亡。その前は……もうかなり薄まっててよく分からないや」
言い終えると、女は再び紙に目を戻した。
呆然と立ち尽くす桐生は、自分の心臓が早鐘のように鳴るのだけを感じていた。
「あ、私は九条。ゴーストバスターさ」
九条とだけ名乗った女は、思い出したようにそう付け足して、名刺を差し出したのであった。