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怪異探偵事務所〈九条軒〉  作者: 桜庭楽
深みに眠るもの
10/12

その伍

 玄関の扉が開かれる音がした。九条が出ていってからすでに二時間ほどが経っていた。桐生は駆け出したい気持ちを抑えて、扉が閉められるのを待った。外を見てしまうかもしれないからだ。


 扉が閉められる音を確認して、早足に玄関に向かった。九条が上がり框に腰掛けていた。目隠しを解いて、桐生のほうへ振り向く。


「九条……お前、血が!」


 九条の口から胸元にかけて血が流れた跡があった。口元の血を拭ったのだろう、袖口も血で濡れていた。


「大丈夫、返り血だから」


 桐生が駆け寄ろうとするのを制して九条が背を向けた。


 警察官の桐生にはその血が返り血などではないことは容易に分かった。しかし、拒絶するような九条の背を見ていると、それ以上彼女に詰め寄ることは出来なかった。


 桐生は黙って、洗面所から濡らしたタオルを持ってきた。九条がそれを受け取って肌を拭う。拭いきれなかった部分は、桐生が拭ってやった。


 その間、九条はされるがままといった様子だった。目はどこかうつろで、いつものような精気はない。


 何かがあったのは明らかだった。外傷はないようだから、物理的なものではないのだろう。だが、喀血するようなことがあって無事なはずがない。


 よろめく九条の肩を支えながら、桐生は自責せずにはいられなかった。軽々しく怪異退治を頼んだつもりはない。しかし、九条がこんな状態になるとは思っていなかったのも確かだ。


 九条はいつも飄々としていて、身の毛もよだつような怪異相手に憶すことなく挑んでいた。少なくとも、桐生の前では。だが九条だって人間だ。相手は化物、それに挑むということは尋常なことではないのだった。


 改めて、その重さを感じていた。

 寄りかかってくる九条の重さは驚くほど軽い。その重さを支えながら、桐生は決意した。


 もう九条にこんな思いはさせない。たとえ目の前の誰かを見捨てることになったとしても、桐生にとっては九条の無事が一番なのだと気がついた。


 広間に戻ると大人たちの目が向けられた。それに答え、九条が言う。


「もう大丈夫なはずです。後はお知り合いに任せれば良いでしょう」


 皆が九条の様子に呆気にとられている内に、九条は引きずるような足取りで廊下に消えてしまった。


 桐生が急いでその後を追う。寄り添うように支えると、九条は一瞬の抵抗を見せてから諦めたように体を預けてきた。


 階段を登り、部屋へ戻る。布団に九条を横たえて布団をかけてやると、九条が深く息を吐いた。まるで死人のように色のない顔をしているので、本当に死んでしまったのではないかと心配になったが、その後には穏やかな呼吸が続いた。


 桐生は九条の側で座り込んでいる。カーテン越しの月光が、九条の顔を照らしていた。


「すまない、九条。許してくれ」


 独白のような言葉がこぼれた。

 桐生が九条の髪を払って、ひたいを撫でる。九条の肌は陶器のように冷たかった。


「……君のせいじゃない、よ」


 桐生は九条に答えを求めていたわけではなかったが、九条は途切れつつある意識の中でそう呟いた。


 その言葉が届いたかは定かではない。九条の意識は引っ張られるように泥濘へと沈んでいった。


 真っ暗になる寸前、桐生が九条に何かを囁いた。そんな気がした。




 ◆◆◆




 九条が目をさますとそばには誰もいなかった。部屋には曙光が入り込んで明るく染めていた。


 九条は体を起こして身支度を整える。といっても浴衣姿だが。誰かが着替えさせてくれたのだろう。血で汚れた浴衣ではなかった。


 部屋を出て、ペタペタと廊下を歩く。夏とは思えないほどに床板は冷えていた。階段を降りて広間へ向かう。話し声が聞こえてくるが、逼迫した様子はなかった。


 顔を覗かせると、すでに五人が集まっていた。瞳とその父、女将と桐生、そしてもうひとり。


「よう、瑠璃」


 三十路頃の男が、軽い挨拶をした。よれたスーツにボサボサの黒髪は、九条にとっては馴染み深いものだった。


「雛助兄……」


 古森雛助。九条の兄弟子だった男だ。十歳の頃に門下に入った九条にとって、その頃十五歳だった雛助はまさに兄のような存在だった。


 雛助は瞳の側に座って、様子を見ていたようだった。


 女将が昨日言っていた「こういうことに詳しい知り合い」というのは雛助のことだったらしい。


「俺が着いた時にはすっかり安定していて、もう手をつけることはなかったよ」


 雛助が言った。九条は膝を折って、瞳の側に座る。瞳は消耗からかまだ眠っていた。


「そう……良かった」


 長年の連れ合いのように言葉を交わす二人に、桐生が神妙な顔をした。早朝旅館にやってきた雛助を見て、桐生が抱いた感想は「怪しい」だったからだ。


「……あの、二人はどういう関係なんです?」


「ん、ああ! 俺たちは同門の弟子、兄妹弟子だったんだ。男と女の仲とかじゃねえから安心しな!」


 雛助が桐生の肩を叩いた。痩せてぎょろぎょろした目がよく回る。不健康そうな見た目の割に、感情豊かな人物だった。


「そ、そういうわけでは」


「もう雛助兄、桐生くんをからかわないで」


 くつくつと笑う雛助を九条が窘めた。そのやりとりに、桐生はなぜか疎外感を感じていた。


 当たり前といえば当たり前なのだが、九条にだって友人や知り合いがいる。だが、桐生は九条が他人と打ち解けて話すのを見たことがなかった。今日初めて、九条という人間を見た気がした。下の名前が瑠璃だというのも、今までは知らなかったのだ。


 それなのに、自分が一番九条のことを知っているのだと、勝手な思い込みをしていたのだった。


 もやもやとした思いを抱えている九条を雛助がつついた。指で廊下の方を指して、そちらに去っていった。九条は瞳の様子を確かめていて、それに気づいてはいなかった。


 桐生も立ち上がって、雛助の後を追った。雛助は玄関から外に出て、庭を見ている。懐からタバコを取り出して、それに火をつけたところだった。


「桐生君。君に話しておきたいことがある」


 タバコを咥えながら、雛助が切り出した。先ほどまでのふざけた様子は鳴りを潜めていた。表情は笑顔のはずなのに、底冷えするような声色だった。


「瑠璃が"封印"の専門家だっていうのは、本人から聞いてるだろう?」


「はい」


「あいつは元々誰よりも優れた祓鬼の才があった。俺や、もっと年長の兄弟子ですら、瑠璃が門下に入って一年も経つ頃には追い抜かれていた」


 煙を吐き出して、雛助が語った。


「細かい説明は省くが……あいつが十五の時に大きな霊災があった。霊災っていうのは、まあとんでもなくヤバい怪異だと思ってくれ。そんで、その霊災を鎮める時に瑠璃は自分の身を犠牲にした。その後遺症で、あいつは怪異に深く干渉することができなくなった。制約を破ればどうなるかは、君はもう見たはずだ」


 血で体を汚した九条の姿が思い出される。

 吐き出された煙が朝の空気に溶けていく。


「……俺の目からすると、瑠璃はもう限界だ。今回だけのせいってわけじゃない。繰り返してきた無茶のせいだ。おそらく……次はない」


 次はない。その言葉が巨大な岩のように重くのしかかった。


「……それで、俺はどうすれば」


「なに、簡単なことさ。あいつを怪異から引き離してほしい」


「でも、俺は怪異には何の知識もありません。一人で守るなんて出来ません」


「守らなくていい、距離を取るだけでいいんだ。あいつに"普通の生活"をさせてやって欲しいんだ」


 雛助はポケットからビニールの小袋を取り出して、そこにタバコを捨てた。伸びをして、桐生に振り返る。


「君は俺たちと違って、ずっと日の当たる場所を進んできた。君なら、瑠璃をこちら側から連れ出せるかもしれない」


 そう言って桐生の肩にポンと手を置き、雛助は旅館の中へと戻っていった。ひとり残された桐生は、ポケットに手を入れて空を見上げる。透明に近い水色の空を、薄い雲がいくつも流れていた。


 雛助の言葉を聞いて、胸が圧迫されているような気分になった。


 昨日のことがあって、桐生は自分にできることを考えた。九条を守るために、桐生も怪異の知識を身につけようと思った。だが、雛助から提示された答えはまったく逆だった。


 九条を連れ出して、普通の生活を。


 ほんの少し怪異に触れただけでそれを学べる気になった桐生の思い上がりを否定する言葉だった。表には表の、裏には裏の領域がある。それを行き来するのは容易なことではない。それを突きつけられたのだ。


 裏側にいた雛助が、同じく裏側にいる瑠璃を表側に連れ出すことはできなかった。でも桐生にならば、それも出来るかもしれない。


「俺が……九条を……」


 守る、なんていうのは簡単に使える言葉ではない。怪異だなんてものがなくても、世の中は荒波が立っている。それらから九条を守りきることができるのかは、自分でも分からなかった。


 それでも、昨日の夜に死者のような顔で眠る九条の側で、桐生は覚悟を決めていたのだった。




 『深みに眠るもの』――終

今になって明かされた九条さんのフルネーム。べつに何かの伏線とかではありません。ちなみに桐生さんは遼というお名前です。おそらくこの名前で呼ぶ人は現れません。

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