その壱
「着いたぞ、九条」
車のエンジンを切りながら、桐生は助手席に座る女に声をかけた。その女――中性的な佇まいで、黙っていれば男か女か分からないような容貌をした九条は、桐生の言葉に苦しそうに眉をひそめる。
「う、うぅ……桐生くん。おぶってくれないか……?」
「いい歳をして何を言っているんだお前は。自分の足で歩け」
呆れ混じりの溜息を吐きながら、ドアを開けて外へと出る。目の前に広がるのは、日本の原風景ともいうべき農村だ。
時代の波に取り残され寂れつつある村は、二十一世紀の日本には相応しくない。都会で生まれ育った桐生にはなおさらそう感じられた。
桐生に続いて、九条も車を降りる。紺の浴衣に同色の羽織を着たこの女もまた、二十一世紀には相応しくない。まるでタイムスリップしてきたように見える。
そんな彼女は絶賛、車酔い中なのだ。
(だから車内で本を読むのはやめておけと言ったのに……)
ここまでの道は、ろくに整備もされていないかなりの悪路だった。そんな揺れの中で、引きこもり体質でほとんど車に乗ったことのない九条が読書などをすれば、こうなるのは必然である。
「桐生くぅーん……」
ボンネットにもたれかかった九条が助けを求めてくる。
「はぁ……ほら、来い」
このまま捨て置いていくわけにもいかず、九条の前で背を向けてしゃがんでやる。脱力した体を蛞蝓のように動かしながら、九条が体を預けてくる。成人女性一人分としては随分軽い体重を感じながら、立ち上がって村の道を進む。
「うぇ……吐きそうだよ」
「そこで吐いたら本当に捨てていくからな」
耳元でボソボソと申告してきた九条にぴしゃりと言い放った。
この状態で嘔吐されたらとんでもないことになってしまう。そんな事態になったらこの女を田んぼにでも捨てて京都に帰る所存だ。
ただでさえ、ここまでの足役として無理やり連れてこられたのだ。阿呆な九条を背負ってやるので十分だろう。
「それで、どこへ行けばいいんだ」
「えーっと……奥にある大きなお屋敷の、熊谷という家だよ。……あっ、揺らさないで、吐く」
「人間一人背負っているんだから仕方ないだろう。文句があるなら降りていいぞ」
冷たくあしらうと、背中の九条が不満げな声を上げる。
「むぅ……まだ無理やり連れて来たことを怒っているのかい?」
「当たり前だろう。貴重な非番だというのに」
桐生の本職は警察官だ。本来なら九条の道楽に付き合う義理はないのだが、今回だけは別だった。嫌々ながらもこうして同伴してやっているのだ。
「非番の日まで人助けができるんだ。正義の味方としてはこれ以上ない休日の過ごし方だろう?」
(よくもこいつはぬけぬけと……)
桐生の思いとは裏腹に九条は反省どころか恩着せがましいことまで言い出しはじめる。こうなってしまえばまともに取り合うだけ無駄だ。むしろ、九条との会話に意味があることのほうが稀なのだ。
車の轍が残る道を、極力ゆっくりと、九条を揺らさないようにしながら歩いていく。不思議なことに、村人の姿はどこにもない。 畑作業の季節ではないにしても、一人も外にいないというのは異様な光景だ。それほどまでに、過疎化が進んでいるのだろうか。
しばらく歩くと、立派な門構えをした屋敷の前にたどり着いた。ポロポロと崩れる白壁やささくれ立った柱は、何百年ともいえそうな時間を流れを感じさせる。
「ここだね……もう降ろしてくれていいよ」
九条が肩を叩きながら言った。地面に屈んで、九条を降ろす。彼女ははだけた浴衣の裾を直すと、しっかりとした足取りでスタスタと玄関へ向かう。
「おい、九条。車酔いはどうした」
「え? ……ああ、治った」
一瞬、目を見開いて振り返った九条だったが、ぷいっと前を向くとそのまま歩いて行った。
(……あいつまた騙しやがったな)
駐車場からここまではデコボコの悪路だ。和装に下駄では歩きづらいだろう。それを察知した九条が仮病を使ったとしてもおかしくない。そういうことを平気でやる奴なのだ。
こんなふうに都合よく使われることもしょっちゅうだ。慣れたこととはいえ腹は立つ。今日はもうどんなことを言われても無視しようと、桐生はそう決めた。
「すみませーん。どなたかいらっしゃいませんかー?」
インターホンなどない家だ。九条は縁側から家の中へ声をかける。すると、はーいという返事と共に古びたエプロンを身につけた女性が現れた。年は五十頃といったところか。
「私は九条という者です。熊谷宗一さんという方から依頼を受けて参ったのですが、いらっしゃいますでしょうか?」
「ええ、すぐお呼びしますので上がってお待ちください」
女性は近くの客間に九条と桐生を通すと、そそくさと熊谷氏を呼びに行った。態度から察するにどうやら熊谷氏の夫人ではなく家政婦のようだ。これだけ大きい家だ。そういう手も必要なのだろう。
九条と並んで座布団に腰を下ろし、部屋を見回す。畳も机も古いものだが、これはむしろいい意味で年季が入っていると形容するべきだろう。家具の良し悪しなど微塵も分からないが、長年大切にされてきたのだということは分かる。
全体的に落ち着いた色合いをした部屋で、床板の上に活けられた彼岸花が一際鮮やかに咲いていた。
その花を見ていると、ふと桐生が子供の頃、祖母から「彼岸花を持ち帰ると火事になる」という話を聞いたことを思い出した。今でこそ子供騙しの迷信に過ぎないと理解しているが、この不吉な花を見ているとあながち迷信でもないのではないかという気になってくる。
真紅の華を眺めていると、廊下を進んでくる気配がした。障子を開いて現れたのは、還暦過ぎ頃だろう男性だった。
「お待たせしてもうしわけない……依頼させて頂いた熊谷です」
「九条です。こちらは助手の桐生くん」
九条に紹介をされて、軽く会釈をする。熊谷は老いてなお逞しい体を丸めて、二人に座して礼をした。
それにしてもいつから桐生は九条の助手になったんだ。
「遠路はるばるありがとうございます。……さっそくで申し訳ないのですが、対処をお願いしたいものが蔵にありまして、付いてきて頂けますか」
「ええ、もちろん」
座ったばかりだが立ち上がり、のしのしと廊下を進む熊谷に付いて行く。庭に出て、半ば林に呑まれている蔵に向かう。
蔵の扉には大きな錠前が三つ。
この手の建築に詳しくはないが、いささか過剰な気もする。さらにお札の類も貼られていて、尋常ではない雰囲気を醸していた。
熊谷が懐から鍵を取り出し、錠前を開ける。そして重厚な鉄扉を全身を使って押し開いた。
当たり前だが中は薄暗く、天井付近の窓から僅かに日光が取り込まれている程度だ。雑多なものが、しかし整理されて置かれている。そのどれもが壁際に寄せられていた。微細に舞う埃を手で払う。
蔵の中央、がらんと空いたそこには一際異彩を放つ何かが鎮座していた。
白い布が掛けられているから、詳細は分からない。腰ほどの高さの台座の上に、何かが置かれている。
九条と付き合うようになってから、何度かこういうものに触れてきた。どれだけ場数をこなしても慣れることはできないであろう、この感覚。九条の直感が告げていた。異常、だと。
「直接見ても?」
「どうぞ」
断った九条が一歩前に出て、白布に手をかける。そして、一息に取り払った。
そこから現れたのは、一杯の盃だった。彼岸花のように紅い漆が塗られている。ただの盃に見える一品だった。
しかし、盃を覗き込んだ九条が「ほう」と声を漏らす。九条が何を見たのか、桐生からは見えない。
まったく気は進まないが、ここまで来て見ないというわけにもいかない。九条の横に進み出て、おそるおそる覗き込むと、
「――血だ」
紅い盃よりも、紅い紅いものが満ちていた。