人魚の肉
Do not eat if you want to remain human.
人魚の肉。
食べれば不老長寿になる。一説によれば実際に800年生きたという古い伝承も残っている。
その幻の肉をバスが3日に1本しか無い小さな村で食べたと、巨大掲示板サイトで見かけた。遅れてもらった正月休みにすることがない俺は退屈しのぎに田舎を渡り歩いていた。自分探しの一人旅だ。荷物は最低限、ボストンバッグ一個に詰め込んで、気分で彼方此方へ、東へ西へ。郷土料理には食べたことのない虫や獣もあったが、それはそれでSNSの話題になった。次の目的地は決まりだな。外套を羽織り直すと、俺はその村を目指して進路を変えた。
先に言っておくが、俺は別に不老不死や不老長寿になりたい野望も持ってない。
不治の病に犯されていたり、重大な死ねない使命もない。
ただ田舎で都会を忘れたい、ただの逃亡者、だ。
『マジで、フツーの、村じゃん』
長い道のりを経て過疎化の進んだ村に来たのだ。
閉鎖された村を想像して、勝手に『余所者が村に不幸を運ぶんだ!』的な視線を覚悟していた俺です。
けれども、高齢な村人達は人魚の肉は知らない代わりに、若者の俺にあれこれ世話をしてくれた。
急須で煎れたお茶やお菓子に始まり、山道で転んで擦りむいた左手に赤チンを塗ってくれたりした。さらには宿に、村一番料理上手な婆さんと村一番漁の上手い爺さんの夫婦が名乗り出てきた。
俺は帰っても待っているのは読みかけの活字に、撮り溜めたテレビ番組だけ。部屋を貸してくれる老夫婦もゆっくりしていけと言ってくれた。折角なのだから、何泊かして『人魚を探す』を言い訳にのんびり過ごさせてもらうことにした。
邪魔な荷物を『置きにおいで』との有り難い申し出に老夫婦宅へ足を向けた。季節によっては軒先に柿だの大根だのを干すであろう、絵に描いたような2階建ての日本家屋が築かれている。
『すいません、急で。宜しくお願いします』
『いーっで、いーっで。部屋は余ってっからさ』
『んだんだ。ゆっくりすりゃえぇ』
『春吉くん、夕餉の支度ばすっけど食べれねぇモンはあっがな?』
『や、何でも食べます』
『ほいな、ほいな』
『ばっちゃがご馳走ば作っから、楽しみにしてけろ』
『じっちゃ、酒も酒も!赤葡萄のがいい頃だっぺ』
『わー、凄く楽しみです』
『がははっ、んだんだ。おらも楽しみじゃ』
『ほらほら、じっちゃ、行った行った。
春吉くんも荷物は置かにゃ散歩も出来んべ』
『あいあい、良い肉ば獲って来るべな』
『お願いします』
――魚ではなく肉まで?
――飼育している食肉用の動物を殺めるのか。
――ごめんよ、命達
玄関に立て掛けてある鉈を片手に爺さんは手を振りながら出ていった。爺さんを見送ると、婆さんと2人で2階の陽当たりが良い部屋へ案内される。
『お茶、煎れとくけね。
足りんかったら、呼びんしゃい。
寒くなかね?
じっちゃが帰ぇって来たら、暖炉に火ぃば入れようね』
婆さんは何度も何度も『居心地は大丈夫ね?』と聞いてくる。まるで俺が逃げるのを恐れてるくらいに。
俺が繰返し、『大丈夫です。ありがとうございます』と10回程言った頃にようやっと笑って部屋を出た。
――何もしてないのにちやほやされる感じ。
――子供時代に戻ったようだ。
――うーん・・・新鮮。
通された六畳ほどの和室は掃除も行き届いており、木造の机が千鳥格子の座布団と隅にそっと置かれている。婆さんの階段を降りる音が遠くなる。窓ガラスから日が差し込み、鳥の囀りや木葉の漣だけが部屋を満たしていく。
――晩御飯の時間が楽しみだなんていつ以来かな。
――外食やインスタントばっかだったしな。
一人で適当に済ませる食事、会話代わりのSNS、化学物質や微粒子の舞う空気。此処は何れかとも切り離されている。手作りの食事、明るい村人、豊かな自然。
利便性はなくとも、村の瑰麗が俺を癒していく。
都会での日々に対して寂しかったのでも、不満があったのでもない。
ただ思ったのだ。
たまにはいいな。
こんな日も。
そう思った。
爺さんが帰って来る声や駆け寄る婆さんの声を聞きながら、窓際で俺は読みかけの小説と日向ぼっこしていた。
黄昏時には爺さんが燈炉に火を入れてくれたので、炬燵のある居間へ移動し、2人で先に葡萄酒を飲み始める。
呑み始めると爺さんが机をぺちぺち叩き始めた。あまりにも『ばっちゃ!ばっちゃ!』と煩いものだから、婆さんがつまみに煮物を先に出してくれた。
その煮物がとても美味しい。
暖かくて美味しくて、顔が綻ぶ。味噌で時間をかけて煮込んであり、色んな素材の食感と共に、各々に味が染みている。魚だろうか?生姜と梅干しで消されたお陰で臭みもなく、端で切れるほどふっくら柔らかに煮込まれいる。
手が止まらない。
夕食を婆さんが運んで来たのは、大皿の煮物を空にした時だった。なくなるとは思っていなかった婆さんは目を丸くしていた。
俺は良い歳してみっともなくがっついたのが恥ずかしくて赤面したまま俯いてしまう。
『あんれまぁ、綺麗に食べだねぇ』
『ばっちゃが遅ぇからだべ』
『だどもこんだけ、ようけ食べてくれたら気持ちえぇな』
『すいません…美味しかったです』
『そりゃ、良かった!獲りたてで煮込んだもんだがら、味が染みてねかったけ』
『んなことねぇだ、ばっちゃの人魚煮は世界で一番だよぉ』
『やだよ、じっちゃったら!』
『にんぎょ、に?』
いま、なんつった?
『・ ・ ・ にんぎょに?』
『んだ!町の人は人魚煮、食わねぇのけ?』
『勿体ねぇのう』
『好き嫌いかの?』
『そんなんだと長生きできねぇでよ』
ま。
まって。
まって、まって。
『おかわり要るなら遠慮せんでな』
『んだんだ、納屋に沢山おるで』
『酒もあるでのう』
俺の戸惑いが喉まで顔を出す。
にんぎょ?
がちちッ。
落ち着こうと葡萄酒の残りを手酌で注いでいて、動揺したのか派手にグラスにぶつけてしまった。
あれ?
手が震える。
照明のせいだろうか。グラスに描かれた緑青のグラデーションと葡萄酒が重なって、赤黒い液体に見える。
どくどく。
『あの……』
どくどく。心臓が早鐘を打つ。
どく、どくっ。
どく、どくっ。
心音と声が唱和する。
アルコールで不安を押し流そうと、グラスを持つ左手に力を込めた。
綺麗な左手がグラスを持って、早く気づけと震えてる。あれ、俺、怪我を……?
『あのっ』
いや。そんな。まさか。一気に背筋が凍っていく。
『人魚煮・・・・・・って人魚、の 煮物ですか』
『『・・・・』』
沈黙。
夫婦は顔を見合わせる。
……そして。
『『ぶははははは!』』
『?!』
笑い出した。
爺さんは催促した時と同様か、それ以上の勢いで食卓を叩いている。
『春吉くん、人魚なんて獲れたことねぇべって昼間も言ったべ』
『ホントに春吉くんは人魚さんに会いたいんだべなぁ』
『でっ、ですよね!!!』
――……穴があったら入りたい……っ!!!!!
顔から火を吹く。茹で蛸になった俺は二人に平謝りした。
一瞬でも二人と料理を疑った自分を殺したい!
『すいません、すいません、すいません!!!』
酒精が思ったより回っているようだ。もういやだ、恥ずかしくて死んでしまいたい。頬に熱が集まり、クラクラする。
依然としてクスクスと笑い続ける二人にバツが悪くなって、俺は早急に話を変えなくてはならなかった。
『あー!!あっ、そうだ!!
あのっ、あのあの!じゃあ、なんで人魚煮って言うんですか!?』
『春吉くんは惜しぃとこまで行っとるが。
ね、ばっちゃ?』
婆さんがふふふ、と微笑みながら人差し指をたてた。ぱちっと音が出そうな軽いウィンクをして、だというのに熱烈な視線で見詰めてくる。
『そんじゃなぁ、 ヒントじゃ春吉くん。猪の鍋は何ちゅうね?』
『えーっと、確か……牡丹鍋』
『んだんだ、じゃ鯖を味噌で煮たら何じゃら?』
『鯖の味噌煮』
『んだんだ、名前の通りだべさ』
『はあ……』
それがどうしたんですか。
は、言葉にならず、吸い込まれていった。
ふふふ。
ふふふ。
二人が笑う。
入ってるものは、そう。【名前でわかる】
視界が歪む。
名前。人魚。にんぎょに。歪む。人、魚。
左手が言う。『だから早くって言ったのに』
『魚と半々で入れてんだべ』
『ばっちゃ、早く新しい肉ば食べよう』
He ate mermaids.What did he drink?