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七月三十一日 日曜日 (3)

「私はこういう者です」


 103号室の扉の向こうで顔を出したのは、二十代から三十代半ばくらいのまだ若い男だった。男は初め警戒心を顔に出しながら名刺を受け取ったが、それを読むと表情を変えた。


「心当たりがありましたら是非お話聞きたいんですがよろしいですか。私は203号室の花山さんから雇われている者でして、できれば彼らの入室も許可いただきたい」


 三人は103号室に足を踏み入れた。間取りはハナの住む203号室と全く同じだが、住む人が変わればここまで違うか、というほどに印象が違う。十代の男の一人暮らしと、小さな男の子がいる家庭では、インテリアや家電等置かれている物の質、趣向が全く変わってくるのである。奥のリビングではあの男の子が布団の上で昼寝をしていて、部屋干ししている洗濯物が目に入る。男の妻は初め突然の客人に驚いた様子で、急ぎリビングとダイニングを仕切る引き戸を閉めた。やがて男が妻に耳打ちするようにして説明すると訳を悟り、挨拶をした。


 ダイニングキッチンに置かれたテーブルを中心に、その場に居る全員が椅子に腰を下ろす。男と妻が並んで座って、その向かい側にアラカワとハナ。チョーノは一人余り、二人ずつ並ぶ四人の顔が見える、いわゆるお誕生日席に座った。


「さて、早速本題に入りたいのですが。こちらの203号室に住まれている花山さんが、先日不可解な現象に襲われましてーー」


 アラカワは事のあらましを簡潔に語った。ネームプレート、表札が無い事に気付き、ガムテープで簡単な名札を貼り付けた事。その日の晩、心霊現象に襲われた事。


 「何か思い当たる節がありますか?」


 「……私達がここに越してきて、すぐの事でした」口を開いたのは、男の妻だった。


「住人の皆さんに挨拶を済ましたところで、皆さんの名前がわからない、どこにも書かれていない事には気が付きました。でも、表札や郵便ポストのネームプレートが無ければ不便な事もあるかと思い、ホームセンターでプラスチックのボードを買ってきて……名前はパソコンで印刷して、貼り付けようとしたんです」


「でも、外に出ていざ貼り付けようとしていると、止められたんです」男が妻に代わり、言う。


「誰にです?」


「101号室の、男性の方にです」


 三人にとって、この答えは意外だった。彼らが思い浮かべていたのは201号室の老婆だ。


「あの方は『よした方がいい』と言いました。よく意味がわからなかったんですけど、貼るのはやめました。だってそんな事言われて、それでも貼り付けたりなんかしたなら……その101号室の住人の方と、関係性が悪くなるというか……気まずいでしょう? 引っ越してきて早々、元々ここに住んで居る住人の方と諍いを起こすのは避けたい、そう思ったものですから。それだけの理由だったんです」


「でも、あの子がまた変な事を言うものですから……」


「変な事とは?」


「えぇ、201号室に住んでる、おばあちゃんなんですけど……」


 そらきた、と三人は思う。「何か吹き込まれたんですか?」


「はい。『知らない人に名前を教えちゃいけないよ』って言われた、って言うんです」


「『ナナシノゴンベエ(・・・・・・・・)に連れて行かれちゃうんだよ』って……」


 一瞬の沈黙が流れる。蝉の声が、遠くから聞こえた。


「それは、私の会社の同僚達といったバスツアーでの事でした」男が言った。


「同僚が息子に話しかけたんです。『お名前は?』って。そしたら息子が私に隠れて言うんです。『知らない人に名前を教えちゃいけないよ』って言われた、って」


「私の母も、主人の母も、もうあの子が生まれる前に亡くなっているんです」妻が言う。「それなのに、『おばあちゃんが』なんて言うから……驚いてしまって」


「それがよくよく話を聞いてみると、201号室のお婆さんだった、と」


 夫婦は頷いた。そんなことが続いたため不安になり、結局名前は表に出していないのだと言った。


「やはり霊的な、そういった何か(・・)がこのアパートにはあるんでしょうか」


「ナナシノゴンベエ、って何なんです?」


 不安そうな顔で、夫婦は言う。ここでチョーノは、ある事に気付いてハッとした。テーブルの上に置かれたアラカワの名刺にある肩書きが、『霊媒師』とあるのである。


 あんぐりするチョーノの事などつゆ知らず、アラカワは言った。「まだ詳しい事はわかりませんが、これから調査し、できる限りの事をします。解決の暁にはご報告に参りますので、しばしお待ちください」


 ーー挨拶をして外に出ると、いつの間にか外は陰り、見上げれば厚い雲が空を覆っていた。一雨来そうな、そんな空。そんな時間帯だった。


「霊媒師のアラカワさん」


「なんだよ」


 チョーノは非難するような目をアラカワにぶつけた。


「わかった。わかったよ。この一件、受ける」


 ハナの表情が少し明るくなる。もう半分解決したような、救われたような気分になっている。


 「しかしなぁ」アラカワは頭を掻いた。「まいったなぁ。俺実は、オバケとかそういうのニガテなんだよ……」


「見直しましたよ。アラカワさん」


 チョーノがハキハキと言う。「そんな事言わないで。次は201号室行きましょう。さぁ」


 アラカワは階段を見上げた。しばし、そのまま固まる。


「ヤ、今日はもう十分。情報は稼いだ。あとはこっちで独自に動くから。今日は解散」


 そう言うと、アラカワは坂道を下り歩いて行ってしまった。


「ちょっと! アラカワさん!」


「夕立でも降りそうな空だからな。降る前に帰る」


「そんな事言って! 怖いんでしょう! 二階に昇るのがぁ!」


 アラカワは片手をヒラヒラ振って、こちらを一度も振り返らずに帰って行った。


 姿が見えなくなり、二人は立ち尽くし顔を見合わせていると、ポツリ、ポツリと水滴を肌に感じた。


 しばらくして、滝のような大雨が降った。二人は203号室に戻って雨宿りをし、しばらく降り止みそうもない空を見上げて、夜が来る前に部屋を出た。

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