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七月二十七日 水曜日 (5) 〜 七月二十八日 木曜日 (1)

「ハナな、教室で俺が『名前がわかるようなモン、貼っ付けてねーの?』って聞いたら言ったよな。『俺だけ貼るのもさぁ』って」


「うん」


「つまりはそういうことなんだよ。二十年住んでるっつーあのお婆さんが貼ってない。102号室のアノ男だって……あんなだし、202号室は引きこもりなんだろ。となると、越してきた101号室の男の人も、103号室の家族も思うわけだ。『ウチだけ貼るのもなぁ……』って」


 二人は郵便ポストの前にいた。鳴く蝉の声はヒグラシのそれに変わっている。傾きかけたオレンジ色の陽光が空を染める。時刻はもう夜の七時近かった。夏の空は、体内時計を狂わせる。


 ハナが手にしていたのは布ガムテープと黒の油性ペンだった。彼はテープを数センチの所で切り、ポストの『203』の下に慎重に張る。そして、彼はそこに『花山』と書いた。


 二人は先ほど、203号室の前でも同じことをした。ガムテープをある程度の所で切り、扉の横に張ると名前を書いた。臨時表札である。


「謎でもなんでもない。いわゆる集団心理、的な話さ。気にすんな」


 チョーノはそう言うと、別れの挨拶をして坂道を下った。ハナは坂道の下まで見送りに来た。そして彼は今日の礼を言った。チョーノは「いいんだよ、暇だったんだから」と言う。その通り、彼は毎日退屈していた。何か謎がありそうだったからここまで足を運んだが、その答えは単純。謎でも何でもない、よくある話。チョーノは内心少し失望したものの、一日暇をしのげて満足にも感じていた。明日は朝からバイトがある。その次の日には……何の予定も無い。彼はポケットに手を突っ込み、イヤホンを耳に挿すと、わざとゆっくり歩いて帰った。



     *



 チョーノは目を覚ました。目に映ったのは、眠る前と同じ夜の黒だった。髪が、首が、枕が濡れている。じっとりとした熱帯夜だった。不快に顔を歪め、低いバイブ音を発し続ける携帯電話を手に取った。下を向いていた画面の明かりが彼の顔を照らす。それは、ハナからの電話を告げていた。


 「……もしもし?」着信ボタンをタッチすると、寝起きの声でチョーノは言う。スピーカーの向こうからは、生々しい呼吸音が聞こえていた。


「チョーノか? ……なぁ、これって夢か?」


 ハナは言った。チョーノは目を擦る。目が闇に慣れてきて、部屋の様子が見えてくる。ーー夢なわけないだろ。


「夢じゃあない。どうしたっての」


「じゃあ……じゃあ、これ聞こえるか?」


 ハナの呼吸音が遠ざかる。チョーノは目を瞑り、耳に意識を集中させた。


 ーードンドンドン、ドンドンドン、ドンドンドン……


 それは、何かが何かを叩く音だった。


 リズムは乱れることなく、永続的に続いている。


 何か、そう固くもないものが、木の板を叩いている。


 それには、注意を惹きつけるような意志が感じられる。


 ーードンドンドン、ドンドンドン……


 やがて、ハナの息が戻ってきた。


「なぁ……聞こえたろ? 俺を、呼んでるんだ……」


「ドアをノックする音か?」


 覚醒しつつあるチョーノは聞いた。扉を叩く音だ。だとすれば……誰かがハナの部屋を訪ねてきている……?


「それもそうだし、声が聞こえただろ?」


 声? チョーノはぞくり、と背中に嫌なものを感じる。暗い部屋の中、蝉の声も止み、辺りは静まり返っていた。耳元のスピーカーから、遥か遠くのハナの声が、小さく漏れる。


「俺を呼んでる声だよ……俺の名前を呼んでるんだよぉ」


 ハナの声は今にも泣き出しそうだった。助けてくれと言わんばかりに弱り、怯えている。


 チョーノの頭はもう冷静に回っていた。電話の向こうで、友人は妙な現象に襲われている。


 しかし彼に、今出来ることは何も無かった。

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