八月四日 木曜日 (1)
夜通し降りしきった雨も止み、チョーノは窓を開けてみる。洗われた後の空は綺麗な青だったが、湿った空気がムッと立ち昇ってきて窓を閉めた。彼は肌がじっとり湿るのが我慢ならない。冷房の風が吹く、冷えた部屋の中で、うなだれた男が二人。
ハナが彼の部屋にやってきて、一週間が経とうとしている。チョーノは潔癖というわけでなく、もちろんハナの事が嫌いなわけでもなかったが、そろそろこの狭い部屋に二人でいるのも限界だと感じてきていた。アラカワからの連絡を待っている事もあって下手に外出もできず、ストレスを溜め込む日が続く。
疲れを感じているのはハナも同様だった。自室に帰れないわけでもなかったが、現状あの部屋で眠る勇気は無く。日中帰る事はあっても、夜になればチョーノの部屋にやって来ていた。彼もまた、チョーノと共にアラカワからの連絡を待っていた。ーー友人であるチョーノに迷惑をかけてしまっている事を悪く思いながら、それを言うことの出来ない毎日を過ごしていた。
『昼過ぎに行く』というメールの文面をチョーノは何度か読み返していた。しかし、アラカワが彼の部屋にやってきたのは、十六時過ぎのことである。
「ワリワリ。遅れたね」
「そんな事はもういいです。アラカワさん、あの裏野ハイツについて、何かわかりましたか」
アラカワはジャケットを椅子の背にかけると、だるそうに座った。「とりあえず水」
キッチンに近いハナが動いて、まるで自室にいるかのようにコップを出し、冷蔵庫の中のミネラルウォーターを注ぐ。アラカワはそれを一気に飲み干すと、ふぅーと長い息を吐いた。
「……名を返そう」
「え?」二人が同時に言う。
「神谷友人帳だよ。知らない?」
「夏目、でしょ」チョーノは呆れた様子でつっこむ。「どういう意味です?」
「裏野ハイツ周辺の地理、歴史を百年ほど前から遡って調べてみた。あの建物が建つ前、あそこは墓地だった……なんて事は無かった。ごく普通の、平和な町さ。……でもな」
芝居掛かった口調で、もったいぶった話し方でアラカワは話す。二人は固唾をのんで、彼の言葉に聞き入った。
「202号室では二十年前、自殺があった」
ハナは衝撃を受ける。ーー自分の隣の部屋で……。そして、部屋探しの際の担当だった、不動産屋の言葉を反芻した。『この部屋ではそういった類の事件はありませんよ。安心してください……』『この部屋ではそういった……』
『この部屋では』
「何て人なんです」チョーノが聞く。
「わからない」
「そこまでわかっていて?」「記録が残っているんでしょう?」二人が矢継ぎ早に聞くと、腕を組んだアラカワは真剣な顔で言った。
「そいつには、名前が無かった」