七月二十七日 水曜日 (1)
「……なぁチョーノ。聞いてる?」
「え?」
ぐったりと机にうつ伏せていた青年は顔を上げた。
つい昨日梅雨明けが宣言されて、すっかり空も晴れ渡った夏日だった。東京郊外、山の上に位置する大学のキャンパス。外の林では「さぁ僕たちの出番だ!」とばかりに蝉たちが、声を張り上げて鳴いている。容赦の無い多湿高温が学生たちを襲い、皆避難してくるかのように教室にやってきて、なかなか帰ろうとしなかった。
期末試験のあった三限終わり。窓から射し込む強い日光が方々に反射してぼんやり明るい、昼休みに入った正午の教室だった。
「なんだよぉ。もういいわ」
「聞いてる聞いてる。お前の住んでる……そのナントカアパートの話だろ」
「『ウラノハイツ』!」
「ウン、で?」
先ほど『チョーノ』と呼ばれた青年はここでしっかり、話し手の顔を見た。
チョーノは今ーー近頃特に退屈をしていた。特に期待もしていなかったキャンパスライフだったが、予想していたよりもはるかにツマラナイ日々。「大学時代は人生のゴールデンウィークだ」なんて誰かが言っていたが、そんな誰かさん曰くゴールデンウィーク真っ只中の最中、夏休みがやって来る。ーーやって来てしまう。予定は特にナシ。野球に明け暮れた中学高校時代、土日祝日すら部活動で休みが欲しくてたまらなかったというのに、いざ自由な時間が余るほどに出来てしまうとすることが無い。時間が欲しくてサークルにも入らなかったというのに、いまだこれといった趣味もナシ。旧友達から草野球に誘われることはあった。かといって、辛い思い出が染み付いた野球を再びやる気にはならず。
最低限やるべきことをこなし、『起きて眠る』を繰り返す自堕落無気力な日々。そんな彼は話し手の言葉に、ほんの少しの期待を寄せた。
「それがさ……住み始めてもう四ヶ月くらいになるんだけど、気になることがあって」
「気になること?」
チョーノは眉間に皺を寄せた。
「うん。住んでる人のさ、ネームプレートが無いんだよ。郵便ポストに」
「ネームプレート……」
「そう。名札、ってのかな」
彼は自分が住む大学近くのマンションを思い浮かべる。六階建ての建物で、その部屋数分の幾つもの郵便ポストが、エントランスホールには並んでいる。自らがいつも開けている「305」のポストには、「長野拓海」の文字。――「チョーノ」は彼のあだ名である。他にも、そこには幾つもの苗字が並んでいた。
「一つも無い?」
「うん。一つも。だから俺さ、他に住んでる人の名前、知らねーの」
「え、部屋の前に表札も無いの?」
「うん。無い」
「……そのアパート、他に人は住んでるんだよな?」
「いるよぉ。俺の隣の隣の部屋におばあちゃんがいて、下の階にサラリーマン、って感じの男の人いるし……子どもも見たな」
「ふぅーん」
ちゃんと人が住んでいる。老人もいれば、子どももいる……。
チョーノはゲーム感覚で推理を働かせた。――密な近所付き合いなんてのも今は昔。個人情報を知られたくない人だって多いだろうし、郵便ポストにネームプレートを入れない人だって居てもおかしくはないだろう。俺だって両隣に誰さんが住んでるだなんてハッキリ思い出せない。でも……そのウラノハイツでは住人全員が、ポストにネームプレートを入れていない。表札すら一つも無し。……住人の世代も広いってのに。一人暮らしの若者ならまだしも、そこには子を持つ親が居て、お婆さんも居る。それは確かに、少し妙だと言えるんじゃないのか。郵便ポストにネームプレート入れが無かったとしても、例えばガムテープを貼り付けて、その上にマジックで名前を書く、くらいの事するんじゃないだろうか。
「部屋番号が判れば郵便物は届くのか?」
「そう」
「ハナは名前がわかるようなモン、貼っ付けたりはしてねーの?」
「してない」
花山晋吾。それが相談者の名前だった。友人達からはハナ、と呼ばれている。
「なんか俺だけネームプレート貼るのも……なんかさ」
「まぁ、わかるよ」
「なぁ。なんでみんなネームプレート付けてねぇんだろ。……俺も付けねぇ方がいいのかなぁ」
チョーノは腕を組み、窓の外で風に揺れる木々の先を見ながら頭を回転させた。住人皆がネームプレートも表札も付けないアパート。……偶然なのか。それともなにか理由があるのか。
謎だな。
彼の中に、ムクムクと好奇心が湧く。
「なぁ、ハナの部屋って、クーラーあんの?」
ハナはポカンとした顔でチョーノの顔を見た。
「あるよ」
「よし。じゃあ今日学校終わったらハナんち行くわ」
「えー。部屋キタネーけど……」そうぼやくハナの声は、もうチョーノの耳には届いていなかった。
期末試験を終え、極限の退屈に突入しようとしていたチョーノは無意識に思っていた。このウラノハイツの謎が、しばらくの間退屈を忘れさせてくれそうだ、と。
チョーノは頭の中で推理を巡らす。彼はもう目の前の謎に夢中だった。窓越しに聞こえる蝉の声を聞きながら、少年時代、母の田舎で現地の子ども達と野を駆け川で泳いだ楽しかった夏の日々の感覚を、彼は思い出していた。




