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妙適の芳香

作者: 高野 真

妙適【びょうてき】

(仏教用語)男女交合の妙なる恍惚。

 彼は激怒した。何に対してであるか。

 今まさに坐して居る激安精進料理チェーン「菜照屋」の名ばかり分煙についてであるか。

 否。検非違使逃れの偽装とは言え彼は得度者であるから、下臈の者どもがくゆらす毒煙が衣鉢に沁みても文句は言わぬ。

 では、統合庫裡で大量生産されたる、季節感皆無の笋羹に対してであるか。

 否。彼は正食偈を重んじる男であるから、真冬に白瓜と茄子と筍の炊き合わせを出されても文句は言わぬ。

 ではいったい何が彼をして満腔の怒りにうち震えせしめているのか。

 その理由は彼が手中なる洛中新報にあった。

 洛中新報は亰都で発行されて居る唯一の世俗紙であったが、その実は党のタントラとでも言うべきものであり、党機関紙である声明新聞とともに彼らの咽喉と舌の役割を果たしているのである。


――日出づる国の中心として燦然と輝ける亰都市と、萬物取扱小売商チェーン「一門市場」は此度、所謂「顛倒書物」の取扱に付、以下の如く協定を結べり。

 一、本協定の企図する所は、女人と学侶をして不浄なる書物より遠離せしめることにあり。

 一、亰都市人民健全育成条例に定むる「顛倒書物」を販売せんとする場合、各店舗責任者は市当局より指導を受くるものとする。以下略。

 また、本協定に基づき、早速亰都市は下記の如く指導せり。

 イ、「絵解愛染曼荼羅」はその冊子全体を所定の袋で覆い、梵字を以て封印を施すべし。以下略。


 これは表現の自由の侵害に他ならぬ!


 彼は勧学院で国法学を修めた明法士でもあった。

 修了後は国法学とは何の関係もない一般企業に就職してしまったが、それでも如法精神は衰えず持ち続けているつもりであった。

 万物の根本法たる大日安国法においては――

 国教に反さぬ限り表現の自由は保障される。

 そして国教においては、人間本来の営みに浄不浄の別はなく、自我自欲に囚われぬ限りにおいて性的欲求も是とされる。

 この自性清浄の原則を根拠として男女の和合を掲載する絵解愛染曼荼羅が合法化された大審院判決は、国法学を履修した者なら誰でも知っているはずであった。

 人民の健全な性生活に資するためという目的の制限こそあれ、そこには一定の表現の自由が認められたのである。

 にもかかわらずこの協定では、その絵解愛染曼荼羅を行政が一方的に顛倒書物―煩悩を惹起せしめ善良なる道義観念に逆らわしむる虞のある書物―に認定し、そればかりかその表紙を袋で覆い隠すという暴挙に及ぼうとしているのである。


 彼は飛龍頭の最後の一個を口にねじ込むと、店を飛び出した。

 安っぽい出し汁とともに五臓六腑に沁みるこの情念は、義憤かはたまた淫慾か。

 口の端に泡を吹き、目を血走らせる様は薬物中毒者にさも似たり。

 道ゆく異人が眉をひそめ、路傍に屯する不良少年が思わず飛び退いた。

 天に氷輪、地に芥、飛び込む先は一門市場。


 目指すそれは漫画や週刊誌の並ぶ棚のさらに奥にあった。

 罪なき書物が、忌むべき物、恥ずべき物であるかの如く扱われていた。

 銃殺刑に処せられる囚人よろしく頭の先からすっぽりと袋をかぶせられ、アルバイターの手によるものか題字がマジックペンで汚く書き写されていた。

 そして中央には魚の躍るような形の梵字が大書され、遠離の咒が掛けられているのであった。

 そこには、視床下部に直接突き刺さり妙適を想起せしむる、吉祥天女の姿はなかった。後頭葉から側頭葉を駆け巡り衆生に法楽を説く偈文もなかった。

 天女はひたすらに天魔波旬の謗りを受け、偈文はただただ外法の経典に擬せられるばかりなのである。


 しかし言うまでもなく、書物の表紙はその内容物と密接にかかわるものである。

 読者の購買意欲は第一に表紙によって惹き起こされるものであるから、商業上内容物と無関係であるはずはなく、むしろその図版や文言は内容物に密接にかかわりつつそれを端的に言い表し、かつ読者に対し誘因力を発揮すべきものであるはずなのだ。

 加えて、装丁家という職業が存在することからもうかがえるように、表紙をデザインすることそれ自体もある種の表現行為であると言えよう。

 何故ならその過程においては、作者が内容物に込めた意図を解し、咀嚼し、そのうえで改めて自らの思想信条を図版としてそこに出現せしむる必要が生じるからである。

 ならば、内容物に対する表現の自由と同様に、表紙に対するそれもまた担保されねばならぬと言えよう。

 にも関わらず、いち自治体といち私企業が協定を結び、出版者の了承を得ることなく出版物の表紙に覆いをかけることは、表現行為の果実たる図版を公権力が検閲のうえその内容を実質的に改変することに繋がり、出版者の表現の自由を侵害することに他ならないのではないか。

 御本尊のおわす亰都市と言えど、かかる暴虐は許されるものではない。

 そしてこれは、萬物取扱小売商に絵解愛染曼荼羅を陳列することの是非とは別個の、我々人民が生まれながらに持つ基本的人権にかかわる問題なのである。


 ゆえに彼は決意した。不当な弾圧から、書物を解放せねばならぬ。

 財布に残れるただ一枚の一万両札で、陳列棚の絵解愛染曼荼羅をことごとく買い取った。

 次の店でも、その次の店でも彼は絵解愛染曼荼羅を買い漁った。手元に現金が無くなると、電子大福帳を使って引き出してでも買った。

 帳場の女子は淫獣を見るかの如く、侮蔑と恐怖の入り混じりたる目で彼を見た。

 しかし彼は斯様な視線を気にも留めなかったのである。

 どだい、自分に釣銭を渡すときには誰も手を添えてくれぬ。その程度の扱いにはすっかり慣れきっていた。

 咒を解き放つと顕れる天女たちの笑顔! それだけが彼の心の支えとなった。


 彼は伝令狐を中央委員会のもとへ走らせた。

 人民戦線をして、この絵解愛染曼荼羅解放闘争を貫徹せしめん。

 洛中、否、この国の全ての絵解愛染曼荼羅を買い集め、亰都市中に走らせた機械牛から人民のもとへ配布することで、人民に階級的めざめを促し、自己解放闘争へののろしを上げさせるのだ。

 権力の走狗と化した一門市場と、人民抑圧ファシスト政権に怒りの鉄槌を打ちおろし、金剛=胎蔵の反革命反動勢力を粉砕するたたかいへの第一歩なのである。

 しかし。期待に反して中央委員会からは何の音沙汰もなかった。

 彼は二匹目、三匹目の伝令狐を放ちて己が計画を知らせたが、返事が来ることはなかった。


 彼は業を煮やした。

 中央委員会は敗北主義に陥れり。こんなことではいつまで経っても得度者・学侶階級の団結、一斉蜂起、そして革命など期待することはできぬ。そう思った。

 ゆえに彼は、たったひとりで闘争を開始することにしたのであった。

 東山は将軍塚へと至る遊行道路の片隅で、夜陰に乗じて牛車の軛を機械牛に溶接した。

 官憲や党兵といった暴力装置による一切の反動的妨害を排除するためである。

 そして懐から小さな茶色い装置を取り出すと、やや震えた、それでいて甲高い声でもってアジテエションを録音しておいた。

 これが遺言の代わりである。

 願わくは、我の後に続く者が現れんことを。

 そんな祈りを込めつつ、かねてより自宅に備蓄せる革命図書(このときを以って、絵解愛染曼荼羅はその本質を革命的に前進されたのである!)をその荷台へと文字通り山積みにしたのであった。

 小さな小さな解放区が、ここに誕生したのである。


 決戦の朝は来たれり。

 昇る日輪がジュラルミンの外皮を鈍く輝かせている。

 彼は機械牛の右頬に差し込んだエナーシャーハンドルをがりがりと回した。

 勢いのついた頃合いを見計らって操縦席に飛び乗り、始動ボタンを押す。

 ぶるんぶるんと全身を奮わせて、全長十九尺、全幅七尺一寸、全高八尺四寸、重量三万四千貫の巨体に生命が吹き込まれた。

 床から突き出た二本のレバーを押しこむと、尻から噴き出す排気も荒くばっふばっふと動き出す。

 跨座する彼は正装に身を固め、正絹漆黒寺紋入りの袍服の上から金襴の七条袈裟を纏い、襟から覗く純白の羽二重帽子がてらてらと輝いていた。

 左に続く煉瓦の囲いは蹴上浄水場、右手へ伸びる築堤は疏水のインクライン。

 三條通の石畳を下る彼の眼前に広がるは亰都の街の甍の波、のろのろと並走する路面電車にすし詰めになった詰襟姿の少年少女が、荷台を指差しぴゃあぴゃあとはしゃいでいる。

 同乗していた大人たちの幾人かが積み荷に気づき顔をしかめたが、そうした常識人ぶった振る舞いを彼はもっとも唾棄した。

 こうした書物の世話になった時代が諸君にもあったではないか、何をか今さら。

 そんなくだらぬ良識なぞ六足猫に食わせてしまえと、平安大神宮の自律歩行型金色大鳥居を横目にしつつ彼は思った。


 ともあれ、夜になると満船飾で徘徊すると噂の屋形船が朽ちるに任せる白川を小さな石橋でひとまたぎすると、間もなく三條駅前である。

 駅前広場に鎮座する銅像は御本尊に向かって平伏しているのではなく、実は手元の小銭をちまちまと数えているのであるが、誰が言い始めたか土下座像と呼ばれ学侶たちの恰好の待ち合わせ場所であった。

 いざ闘わんいざ、奮い立ていざ。

 鳥辺野発化野行きの路線バスと安井金刀比羅宮直行のタキシーに埋め尽くされた車寄せに機械牛を乗り入れると、四方八方から警声を浴びせられた。

 しかし今の彼には、それが闘争開始を宣言せるファンファーレの如く聴こえた。

 手にした拡声雀の脚を抜き頭を叩くと、録音せるアジテエションがいよいよ流れ始めた。


 ――本日ここにお集まりの、得度者、学侶の皆さん!

 我々は、仏国土人民戦線解放派であります。

 我々は、亰都市当局と一門市場による表現弾圧に断乎抗議するものであります。

 彼らは絵解愛染曼荼羅に顛倒書物のレッテルを貼り、囚人の如く袋を被せております。

 御本尊は次のように説いておられます。

 妙適清浄句是菩薩位、見清浄句是菩薩位。

 性的表現は、絵解愛染曼荼羅は不浄のものではありません。

 亰都市当局は、性を不浄のものと扱う政策を撤回せよ!

 亰都市当局は、絵解愛染曼荼羅に掛けたる咒を今すぐ解放せよ!


 ばたんと荷台を開け放つと、ほとばしるリビドオに負けじと革命図書が溢れかえった。

 彼はそれを手当たり次第につかみ取るや、居並ぶ人民に向かって大法会における行道散華の如く盛大にぶち投げたのである。

 妖艶な笑みを浮かべた天女が、善男善女の眼前に降臨した。

 解放された妙適が、ひらひらと芳香を放ちながら頭上に降り注いだ。

 いざ人民よ、書物を手に取り立ち上がれ。

 手にした革命図書のペエジを大きくひろげ、繰り広げられる男女の営みを権力者どもに突きつけるのだ。

 袋をかぶせ遠離の咒をかけ、視界の隅に追いやったところで何になる。

 所詮は臭いものに蓋したに過ぎず、根本的な解決にはならぬことを知らしめねばならぬ。


 しかし。しかしである。

 何故こうも反応が薄いのか。それが彼には解せなかった。

 駅前広場の石畳の上を春爛漫の円山公園の如く桃色に埋めていく革命図書。

 しかし拾う者はおろか、目を向ける者さえ居ないのである。

 もとより、人そのものが居らぬ訳ではないのだ。

 事実、そこにもここにも、学侶とおぼしき若者が屯しているではないか。

 ある者は仲間と談笑し、ある者は手にした電信電話笏に目を落としている。

 にもかかわらず、その双眸には革命図書の断片すら映っておらぬようであった。

 いや、物体としての書物は見えていても、そこに込められた彼の革命的思念を読み取れる者は誰ひとりとして存在しなかったのである。

「絵解愛染曼荼羅なんて所詮はエロ本、販売すること自体が我が国の恥ですわ」

「エロ本なんていまどき店頭で買わへんし。両界電子網に動画があるしな」

「うちの子が興味示してしもて、視線そらすんに苦労しましてん」

「見とうない、いう意見にも配慮が必要でっしゃろし当然ですわな」

「表現の自由がある言うんなら、規制する自由もありますやろ」

 彼の耳に届きしは、表現の自由の何たるかをその上辺すら理解せぬ者どもの戯言ばかりであった。


 話を矮小化してはならぬ、論点はそこに非ず! 彼はあわてて叫んだ。

 表紙や見開きに描かれた、乳や、股間や、交わりや、淫語の数々が問題なのではない。

 行政や小売業者が、一方的に、表現物を規制し手を加えることこそが問題なのである。

 絵解愛染曼荼羅という対象物に騙されて、安易にこれを首肯してはならぬ。

 仮に書店が、特定の思想信条を扱う書物の題字を塗りつぶせばどうなるか。

 しかもそれが、行政の指導であった場合どうなるか。想像してみたまえ。

 人民よ目を覚ませ。

 これに味を占めたる権力者は必ずや次の一手に打って出る。

 あれも御法度これも御法度と規制に規制を重ねられてからでは遅いのだ。

 手ずから猿ぐつわを噛む真似をしてはならぬ。自らを手鎖に処す真似をしてはならぬ。

 家畜小屋に繋がれた豚が、己が敷き藁の居心地の良さを自慢するようなものではないか。

 偽りの安住に身を委ねても、その先に待つは屠殺場のみである。

 これで最後、これを逃せば諸君は永久に自己解放の機会を失うのだ。

 共に起ち、亰都市と刺し違える覚悟で戦おうではないか。

 そうか、ここまで申しても諸君は起たぬか。

 ならば我のみが起つ。益荒男の戦いぶりをとくとご覧じろう。


 緋色の房も眩しき檜扇を高らかに掲げ大見得を切った彼であったが、その目に映ったのは七ツ釦の詰襟服、左腕に真紅の腕章をつけた少年少女であった。

 南無三、あれは純衛兵ではないか。

 しかし時既に遅し、彼は逃げ出す間もなく、機械牛ごと取り囲まれてしまったのであった。

 純衛兵は、具足戒を重んじる勢力の中でも特に先鋭的な一派である。

 沙弥、沙弥尼を自称しつつも特定の師僧を持たなかった彼、彼女らは、自らの規範と行動倫理を内に内に求めた末に異様なまでの純化を遂げていた。

 その結果育まれたものは、性的潔癖、否、究極的とも言える性への不寛容であった。

「婬すなわち波羅夷の大罪なり」とて亰都市中のあらゆる性的表現や記号を攻撃し、その過激さ故に在家からも得度者からも恐れられる過激派集団と化していた。

 でんつくでんつくでんでんでん。でんつくでんつくでんでんでん。団扇太鼓が打ち鳴らされる。

 読経に合わせて絡めらるる羂索は、清姫化けたる大蛇の如く十重二十重、ぐるりぐるりと機械牛を縛り上げ、エンヤコラと力を合わせばさしもの巨体も引き倒されり。わっせわっせと袖を髪を掴む腕、彼の身体は右へ左へ東へ西へ、引きずり下ろされ足蹴にされて、五寸釘を茨の如く生やしたる調伏棒が降り注ぎ、血花を咲かし微塵と破るる。革命図書に放たれし火は降魔の炎もかくあるや、不動明王の光背の如く燃え上がり、彼の身を焼く心を焼く。罪障消滅、破邪顕正、叫ぶ正義は勇ましけれど、為せる所業はあなや獄卒、牛頭馬頭のそれ。

 そしてとどめに振り下ろされる、バール、棍棒、工業ハンマー。

「変態野郎」「性犯罪者」「異常性慾者」という罵声に混じって、ばすッぶすッと襖にこぶしで穴を開けるような鈍い音があたりにこだました。

 その場に居合わせた学侶たちは泣き、喚き、そして逃げた。そのまま気を失った者も居た。逃げ遅れた一部の者は、おまけとして「解脱」せしめられた。

 そして彼は、どす黒く鉄臭い機械油と血の海に、その身も意識も沈めていったのであった。


 夢の中で、彼は裸足で走っていた。

 見渡す限り、一面の瓦礫である。

 逃げねばならぬ。

 わしづかみされたかの如く心臓が痛んでも、

 肋骨がはじけ飛ばんばかりにきしんでも、

 ―――とにかく逃げねばならぬ。

 立ち止れば、追いつかれてしまう。

 折れた材木を踏みつけて血を流そうが、

 転んだ先の割れ窓で腕をガラスまみれにしようが、

 ―――とにかく走らねばならぬ。

 時折、柔らかいものを踏みつける感触がある。

 幾重にも積み重なった瓦礫の中から、人の声が聞こえることがある。

 それでも、

 ―――ひたすらに逃げねばならぬ、走らねばならぬ。

 後ろに、すぐ後ろに迫っているのだ。

 熱したフライパンを振りかざした母親が、

 中身のない眼窩でこちらを睨めつける同志が、

 全身を経文で埋め尽くしたあの女が、

 葬儀費用の見積書をひらつかせた上司が。

 息も絶え絶え彼は往く。

 あれに見えるは師僧連。

 真白な法衣に切袴、手甲脚絆に身を覆い、蓮華笠を戴く姿は回峰行者。

 脚に縋り付き、頬を擦りつけ見上げたその顔は。

 真っ赤な糸でぷちぷちと縫い潰された、瞼、口唇、耳穴―――


 丸二日ぶりに目覚めた彼がまず目にしたものは、見知らぬ天井であった。

 見知らぬベッド、見知らぬ壁紙、見知らぬ窓、祀られている見知らぬ護法神。

 そしてその視界を遮るように見知らぬ人間が顔を覗かせた。

 腫れぼったい頬をして嫌味ったらしく口をへの字に曲げた、陰湿そうな中年男である。

「平岡くぅん、わかるかな。あ、無理はしなくていいからねぇ」

 ここは癲狂院か、さもなくば学問所なのだ、と彼は思った。

 政治犯を収容し、荼枳尼丸をはじめとする薬物投与や、一日中大音量で聴かせられる三宝和讃によって思想改造を施す学問所は、廃人化施設として悪名高かった。

「あ、心配ご無用ですよぉ。ここは学問所ではなく普通の病院ですからねぇ」

 何故なら君はもう政治犯ですらないのですからねぇ、と嘲笑しながらその男が言った。

 男は、亰都府検非違使庁衆生安全課の斎藤と名乗った。

 投げて寄越した洛中新報の一面には、「政府、人民戦線と歴史的和解へ」の見出しが大書されていた。

 政府管長と人民戦線総司令官が対談し、政府側は人民戦線の忍耐力と統率力を、人民戦線側は政府の指導力をそれぞれ称賛したうえで、「明るい仏国土づくり」の基本方針で合意したのだという。

 記事はご丁寧にも、和解は中央委員会の決定によるものであり、これに反する行動を取る者は反革命の分派主義者と断罪し厳正に対処する、という人民戦線報道官のコメントを載せていた。

「君は退院次第、猥褻物頒布罪で逮捕ですねぇ。人民戦線の処刑は残酷ですから、生命拾いできて良かったですねぇ」

 ねばっこい声が、ヤニ臭い吐息とともに吹きかけられた。

 ぐんぐんと心拍数が増し、血管が拡張するのを彼は感じた。こめかみが痛い。手の震えが止まらぬ。


 彼は激怒していたのだ。何に対してであるか。

 政府と初めて和解に漕ぎつけた司令官という名誉欲しさに組織と魂を権力に売り渡し、のうのうと新聞紙上に笑顔を見せているかつての同志に対してであるか。

 否。彼は既に気づいていたのである。

 終わりのない、報われることのない闘いを続けることのむなしさに。

 故に、裏切りに対しても殊更に怒る気になれなかったのである。

 では、この行動に込められた政治的意義を解さず、猥褻物頒布罪というチンケな罪状で豚箱へ放り込まんとする官憲に対してであるか。

 否。彼は既に気づいていたのである。

 己の為したことが、所詮は自慰に過ぎなかったことに。

 絵解愛染曼荼羅にも、仏国土人民戦線解放派の闘士としての彼にも、人民はその存在意義を与えなかったのである。

 それは宗教的敗北を、そして政治的敗北の両方を意味した。

 絵解愛染曼荼羅はあくまでエロ本であり、彼は単なる阿呆陀羅経の願人坊主に過ぎなかったのだ。

 すなわち、彼が侮蔑していた種子衆―人民寺院の前で笛吹き鉦打ち、御本尊大事を唱える念仏一派―と何ら変わらぬ、政治活動をしている己に酔うばかりの、民主主義に資する価値など糞ほどもない存在であったということに他ならぬ。


 ではいったい何が彼をして満腔の怒りにうち震えせしめているのか。

 その理由は彼が手中なる洛中新報の、最下段の小さな囲み記事にあった。

――輝かしき万物の本地仏たる御本尊を戴ける亰都市は、先般締結せし「顛倒書物」にかかわる協定を、市内に立地せる全ての萬物取扱小売商と結べり。

 付して、各社に対し以下の如く指導せり。

 イ、女性を書物の表紙に用いんとする場合には、予め被写体に御高祖頭巾を被らしめ、尼装束を着用せしめること。能わざる場合は表紙に墨入れを行うべし。

 ロ、前項は顛倒書物のみならず一般書物にも適用す。未来ある学侶の梵行の妨げになるを防ぐが所以なり。


 間に合わなかったのだ。彼の危惧は現実のものとなった。

 勢いづいた権力は、とうとうその魔の手を全ての書物に広げてきたのであった。

 来週から発売されるあらゆる書物の女性は、御高祖頭巾で目以外を覆い隠され、尼装束で体型もわからないようにされてしまうのだ。

 或いは表紙を飾るべきその顔を、身体を墨で塗り潰され、誰が誰やらわからぬ有様にされてしまうのである。

 彼は全てを恨んだ。暴力的なる政府を。堕落しきった人民戦線を。権力に阿る小売商を。

 無知なこの国の人民を。無力な己を。

 そして、御加護を下さらなかった御本尊を恨んだ。所詮御本尊とて、香を、供物を捧げ奉る勢力に与するということなのか。

 しかし、今の彼にはもはや恨みや怒りをぶつける対象も、術もないのであった。

 遠くから、種子衆の例の馬鹿騒ぎが聴こえてくる。

 仏法僧とはなんだ――これだ! どんどこぴぃひゃら、どんどこぴぃひゃら。

 あんな風になれたら、どれだけ気楽なことだろうか。しかし、そこまで身を落とすことは、僅かに残っていた彼の矜持が許さなかったのである。


 だからせめて、彼は、―――

 目をつぶり、耳を塞ぎ、口をつぐむことにした。

 それは夢に見た、師僧の姿そのものであった。


 木喰行の妨害にならぬようにするため、物を満足に食べられぬ病人や貧困者に配慮するためという理由から、雑誌表紙への料理写真や食品名の記載が禁止されるようになるのは、この一年後のことであった。




この話は決して絵空事ではない。


産経ニュース 2016.3.16配信

コンビニ成人向け雑誌にカバー 堺市とファミマが開始 市内84店舗に導入へ

コンビニエンスストアに並ぶ成人向け雑誌を子供が目にする機会を減らそうと、

堺市とファミリーマートは16日協定を結び、

雑誌の中央を腹巻きのように濃い緑色のビニールカバー(高さ12センチ)で

覆う取り組みを、同市北区のなかもず駅北口店で始めた。

(中略)

対象は大阪府青少年健全育成条例で有害図書類に指定され、区分陳列された雑誌。

陳列棚の下方には白い横長の板も設置し、小さな子供の視線を遮る。また店舗入り口には「女性と子どもにやさしい店」と記されたシールを貼っている。

市と外部有識者との会合で一昨年、「コンビニでは性表現が氾濫している」という

指摘があったのがきっかけ。

ファミリーマートの担当者は「雑誌の売り上げは落ちるかもしれないが、

イメージアップにつなげたい」と話している。



(平成28年6月7日脱稿)

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[良い点] 太宰を敬愛されているのがよく分かって頬が緩んだ。 [気になる点] ルビを振ってもらわないと読めない漢字が多すぎる。 機能があるのだから、使うべき。 [一言] 好きな人は間違いなく好きだと思…
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