「どうせ趣味だから」を使うのはやめないか
言葉には幅がある。同じ意味が、ある人には良い意味で、またある人には悪い意味で取られることもある。多くはその人のこれまでの人生で、関わった人・文章の使用例に帰属している。言葉そのものに罪は少ない。面白いもので、言葉は使う人で龍にも化ければ、ゴミクズにしかならないこともある。
先日、なろうでのやり取りで「趣味」という言葉が気になった。私自身、趣味という言葉には良い印象がほとんどだ。嫌な意味で受け取るのは、「どうせ趣味だから」という使われ方の時だろうか。私がどう嫌いだと言うと、逃げ口上に使われている気がするから嫌なのだ。
先に言うと、逃げるのは悪い事ではない。しかし「どうせ趣味だから」と発する時のシチュエーションを考えてほしい。たいがいが人から不備を指摘された時か、自身のスタンスにケチがついたときではないだろうか。どうせ趣味じゃん、目くじら立てるなよ……なんでそんなムキになるワケ? とまあ、一例を上げればこうなるわけだ。
告白する。そう言われた時、自分の情熱や努力、どころか自分の大切ななにかを汚された気持ちがするのは確かだ。しかしタイトルの通り「やめないか」というのは、何も言った相手だけが嫌な思いをするからではない。「どうせ趣味だから」というフレーズは、「やるべきことじゃないんだから、俺は努力しなくていい」につながっている。その言葉を呟いた瞬間、現在の努力を放棄したのみならず、未来の努力まで無意識に放棄している。ゆえに、我慢して努力すれば未来に到達したかもしれない境地を、自ら放棄したことになる。
タバコと同じか、それより厄介だ。他人だけでなく自分を害し、さらには自分の限界を勝手に決め、価値を貶める。
もしかしたら素晴らしい作品に出会った、あるいは才能と努力を持った人に出会って、急に自分が恥ずかしくなったのかもしれない。自身の努力の足りなさに情けなくなって、そのせいでつい、言ってしまったのかもしれない。私の体験談によるものなので、他にも例があるかもしれないが。
でも、言わない方がいい。
言ってしまったら、今度から言わないようした方がいい。
自分の趣味は自分で貫いていくものだ。落ち込んで歩みを止めるのも人それぞれ。悪い事ではない。
ただ自分で自分の道を瓦礫でふさぐ言葉には、気をつけないか。
趣味の「趣」という字を調べてみた。
走るという字に、「取」。取は速という文字に通じているそうで、はやく走る、おもむくという意味になるようで。
おもむく。ある場所や方角に向かうこと。物事がある方向に向かうこと。
あくまで個人的に、好意的に解釈するならば「暇ができれば身体が勝手に、(全力で)取り組んでしまうこと」になる。もちろん「趣味」は幅がある言葉だと思うので、受け取り方は人それぞれ、経験による印象それぞれなのだと思う。
私は、人の人生に幸福をもたらすのは「趣味」ではないかと感じている。人が「やめろ」と言ってもやってしまうこと。好きだからやってしまうこと。やるべきことではないのにやってしまうこと。時々仕事が好きで好きでたまらない人もいて、仕事が幸福と同義の人もいる(幸福な人だ)。が、仕事の多くは生きるためにやるのであって、やるべきことが十全に満たされた時、人は自身がもっとも欲することをやってしまうのではないだろうか。
もし、ここまで読んでくれた方がいらっしゃるのなら、武者小路実篤氏の「ある彫刻家」を薦めたい。これは、最初は歯医者から始まる話だが、ある才能のない老人が、どこまでも自分の力を高めていこうと努力した結果が描かれている。
きっと、読んだ人の何人かの心に、火を灯す作品ではないかと思います。
趣味は続けていくうち、芸術に至るのだと、私は信じます。